問いに向き合う著者の真摯な姿勢:マシュー・ウィリアムズ『憎悪の科学』
マーガレット・アトウッドの『侍女の物語』を「いま、そこにある現実」と捉えるのは難しいことではない。それほどに私たちは時代の変曲点にいる。
一方で、その感覚を内面化する方法は人それぞれだ。直感や自らの体験から敷衍して何かを感じる人もいれば、『侍女の物語』が書かれた1980年代という"あの時代"を振り返り、自分たちが何を見ていたのか、何を感じていたのか、あるいはどう振る舞っていたかということを内省的に潜っていく方法もあるだろう。
ただし、私たちにできることは意外と表面的だ。wikipediaを見たり、他の論評を参照したりはするかもしれないが、知の様式に則って自分の中に浮かんだ問いを深めていくことは容易ではない。それにそこまではしない。人とはそういうものだ。私たちは流動体のように変形しながら周囲の流れの渦の中で生きているし、あまり何かを深刻に受け止めすぎることをよしとしない風潮に身を任せる方が楽なのだから。
『憎悪の科学』を書いたマシュー・ウィリアムズは、そんな私たちとは少し違っているのかもしれない。副題は「偏見が暴力に変わるとき」。英語の原題は"The Science of Hate"であり、副題は"How prejudice becomes hate and what we can do stop it"。
副題はリサーチ・クエスチョンともいうべき《問い》の変形になっている。
「偏見はいつ、なぜ、どのように暴力に結びつくのか?」「偏見から暴力に至るものは私たちとは異なるものなのか? それとも私たち自身の中に潜む何かが原因なのか?」「偏見(prejudice)はいかに嫌悪(Hate)となり、私たちにはそれが止められるのか?」
《問い》はさらに《問い》を生む。
「偏見(prejudice)を持たない人はいるのか?」「私たちはいつ偏見(prejudice)を持ち始めるのか?」「偏見(prejudice)を暴力に結びつける人は特別なのか?」
目次には、著者の中に生まれた問いをひとつひとつ探っていこうとする姿勢が現れている。
マシュー・ウィリアムズの『憎悪の科学』はそれ自体は論文ではない。若干の飛躍も含まれているかもしれない。《問い》に対して必要十分な《答え》に至っていない部分もある。それどころが著者自身が結論に至れず《答え》を保留してもいる。
私はそれを《科学》の姿勢だと受け止めている。仮説を提示し、仮説の傍証を探し、仮説の立証が可能であるかを検討する。反例の可能性について考える。《答え》はそんなに簡単に見つかるはずがない。そこに著者の真摯な姿勢が現れている。
世界を表現するためには複数の方法があるのだろう。マーガレット・アトウッドの『侍女の物語』のように《ありうる世界》のリアリティを描く方法もあれば、マシュー・ウィリアムズの『憎悪の科学』のように可能性の可能性を丁寧に検討していく方法もある。
いずれにせよ、それは《答えのない質問》だ。私たちがどのような時代に生きているのか。本を読んでも答えはない。それは私自身が時代をどう受け止め、どう考え、どう振る舞っていくかという動的なプロセスだからだ。
少なくとも私はそんな風に思っています。