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美しいとは何か:クリストファー・アレグザンダー
中埜博さんが、クリストファー・アレグザンダーに彼の自宅でインタビューしたときの映像を観た。中埜さんとアレグザンダーは、「多くの国々で、人々が失望感にとらえられている。どうすればよいのか」と話したという。
アレグザンダーの返答はこんな風に始まる。
それは、美しいとはなにか、そして正しさとは何かということです。大変子供っぽい疑問ですが、私はもう十分、歳もとりましたし、そう言われてもかまいません。
アレグザンダーの答えはシンプルだ。けれども、私はそんな風に生きているだろうか。
私の助言は、何かを決定するとき、何かを作り出すときに、そういった活動すべてに、いつでも、それが、本当にあなたの内部からにじみ出る美しさに裏付けられているかと、問うことです。
わたしは私の内部からにじみでる美しさのことを忘れてしまっている。あるいは気づかなくなってしまっている。だから、アレグザンダーは問うのだ。
心の内部からにじみでる美しさに、あなたは、今、貢献しているかと、問う事です。
たとえそれが、何かの行動でも、発言でも良いです。それは、絵を描くときであっても、詩を詠うときでも、何であっても。それは、老人をバスに乗せるために手伝っているときでも、同じ問いです。心の内部からにじみでる美しさにあなたは、今、貢献しているかと、問うことです。
考えるということは、《問い》を省みながら生活することだと思う。
《問い》にはさまざまなものがある。科学的な《問い》もあれば、世俗的な《問い》もある。誰かの言ったことと自分が考えていることが違うことが《受容》できず、もやもやとした気持ちのまま考え続けることもある。
けれども、アレグザンダーの《問い》は、私が普段考えている《問い》を改めて問い直してくる。「君は君の心の内部からにじみ出る美しさに自身として貢献していますか?」と。
ぼんやりと思っていたことや感じていたことに、言葉が与えられたような気がする。私が普段考えていた《問い》の背景にあるべき私が気づいていなかった大切な根本はこれだったのだなと思う。
今年一年、この問いを忘れずに生きよう。
この問いを、真剣に行うならば、全てに変化が起こります。もちろん、これを最初に聞いたひとが、「ええっ、それに何の意味があるんだい?」と問うてくるでしょう。また、「そんなことは、馬鹿げている」と一笑にふす人もいるでしょう。
しかし、この現実的な美に直面するならば、まず、あたな自身が変わるでしょう。次に、それを見ている人々が変わるでしょう。そして、その事を考えていた人々が変わるでしょう。そのとき、新しい道が開けるのです。
これは、単純なことですが、大変、力があるのです。なぜなら、これは心の底から生まれてくるものだからです。日本語でいう「こころ」からです。
ですから、この助言は、とてもささやかなことですが、あなた自身の人生をも変えることでしょう。あなたがたは、世の中のいたるところに散らばっている小さな美しさを見つける努力をしてほしいのです。ちょうど、今、私たちがこの台所で話し合っていたように「あの樹の枝の葉の間の漏れ日が美しい、かわいい」と。それは、大げさなことではありません。大いなることなのです。
この小さな景色を探し続けること、その小さな行為を求め続けること、小さなこころの感動を感じ続けること。そのために、人生に貢献するように生きて行くことは、なにものもそこから、切り離すことはできません。
お金がそのなかで、とっても醜い方法で、それを切り離そうと、多くの場合、そうしてくるでしょう。しかし、あの緑の木々の葉の木漏れ日は、決してあなたの「こころ」から、切り離すことはできないのです。