スロー・ジョギングとしての長編読書会:『源氏物語』[2]
『源氏物語』の長編読書会は、林望訳で読み始めたのですが、《桐壺》《帚木》を林望訳で読み終えた後に角田光代訳を読み直し、《空蝉》以降は角田光代訳を読んでいくことにしようと思い直しました。
《桐壺》《帚木》の風景描写は林望訳の方が美しく描かれているようにも思いましたが、林望訳の"雨夜の品定め"のくだりが私には合わない気がしたのです。"雨夜の品定め"は時間つぶしのくだらない話とはいえ、いえ、だからこそ、もう少しふんわりとさせておいた方が"らしい"と私には感じられたのです。若い男性が誰でもこういった会話をこういった口調で好むというのは、それはそれでひとつの偏見かもしれませんし。
第2回の『源氏物語』の読書会の範囲の《空蝉》《夕顔》を読みながら思ったことは、「今回の長編読書会では『源氏物語』をスロージョギングのように読もう」ということです。
頑張らない、深入りしない、思い入れない、あっさりと流す。そんな読み方です。おとぎ話のように読むという言い方でもよいのかもしれません。どこかの国の不思議な話。現実的ではないけれど、それはおとぎ話だから。そんな読み方です。
そんな風に読むと私には《空蝉》も《夕顔》もちょっと寂しい哀しい話でした。
《空蝉》と《光君》の恋は、袖すり合うような薄衣のような恋で、お互いに思い合わないわけではないけれど、かといって深く情愛を交わすというものでもない儚い話です。
《空蝉》の章の最後の和歌も少し切なくなります。
角田光代訳だとこのシーンはこんな風に少し映像的に描かれています。
一方の《夕顔》との恋は、《空蝉》との恋に比べるとずっと情愛深く大切に思い始めていたのに、こちらはびっくりするほど簡単に死んでしまいます。
《夕顔》との恋は、若い《光君》にとって哀しく美しい思い出のようです。
伊勢物語の《芥川》で草の露を”あれは何?”と問うた彼女を失い、自分も朝日に消える露のように消えてしまいたいと思う”男”の心にも似ています。
《光君》も《夕顔》を失った哀しみの中ではつぶやきます。
角田光代訳では、《光君》の軽口をさりげなくかわした賢い《右近》との、哀しい会話で描かれています。
長編読書会ではこんな風に気に入ったところだけを読み返しながら、特には頑張らず、あっさりと、スロー・ジョギングのように読んでいければと思っています。