散文詩風な小説:萩原朔太郎『猫町』
猫派か犬派かと問われたら猫派だと答える。
それは第一義的には、子どもの頃に親戚の家にいたやたら吠えるスピッツたちの煩さや、友達の家にいたラブラドゥードルっぽい奴に噛まれた記憶による消去法による選択といえる。
あのスピッツたちやラブラドゥードルっぽい奴に比べれば、結婚前にカミさん(ドロシー)が飼っていたミケやミーコやミィ君たちは、私に害をなすこともなく、私とも平和的共存が成立していた。
昨年のゴールデンウィークに萩原朔太郎の『猫町』を読んだ。
「猫好き」の話なのかと思って読み始めたが、そうでもない。萩原朔太郎は"旅上"などの詩も書いているのに、この小説の冒頭では「どんな旅にも興味とロマンスをなくしてしまった」とディスっている。意外な気持ちになる。私は何を期待していたのだろうか。
この短い小説には「散文詩風な小説」という副題がついている。エピグラムにはショウペンハウエルが引用されている。
だとすれば、この小説は「猫について書いたとしても猫そのものは書けはしない。猫という現象について書くばかりだ」と考えるのが正しいのか。
《猫》を《詩》に置き換えれば、この小説は著者の詩論のようも思える。「月に吠える」の序論が著者の詩論の一部であるように、この小説も著者のある種の詩論なのかもしれない。
「散文詩的な小説」という副題は、そんなどこか夢の中の話のような小説の印象を物語っている。たとえば、主人公が「少し慣れない土地へ行くと、すぐ迷児になってしまった」と言っていることは本当なのか。夢と現実のちょうど境界にこの猫町はあるような気がする。
見えないものをみる話だと考えれば、夏目漱石の「倫敦塔」と比べてずっと親近感を感じる。夏目漱石の「倫敦塔」の視点が内向きの幻想なのに対して、萩原朔太郎の視点が外向きの幻想だからかもしれない。
内向きでも外向きでも、そんな幻想を怖いと感じる人もいるだろう。猫町の均整が取れた姿に、小説の主人公「私」もどこか違和感を覚えはじめ「今だ」と叫んだとき、この小説の猫たちは確かにちょっと怖いと感じだ。
怖いという意味では、人はどんな動物が怖いのだろう。あるいは同じ迷い混むならどんな生き物の街が怖いだろうか。猫の街と河童の街ではどちらが怖いだろう?
生き物だけで考えれば、私は馬が怖い。大きいし、何を考えているかがわからない。気持ちが通じるという人もいるが、私にはただ大きくて、何を考えているかわからず怖い。遠野物語の中に「娘がすがるつるされた恋人の馬の首」というシーンがあるが、トラウマのように蘇ってくる。それならいっそワニの方が怖くない。馬町よりはワニ町の方が住みやすそうではないか。
怖いといえば、そういえば私も道迷ったことがある。富士山の外輪山を一人で歩いていたときのことだ。人もあまり来ない山で、踏み跡も小さく、山頂から降りる尾根をひとつ間違えてしまった。気づいたときには谷筋をだいぶ下っていた。
午後もすでに遅く、谷筋はまもなく日が暮れる頃、尾根筋にでさえすればなんとかなると必死に藪をこいだ。しかし、なだらかな草原のような尾根に出ても道はない。アドレナリンも少し出ていただろう。尾根筋を少し行った先に細い山道を見つけたときに、私の腕は傷だらけになっていた。そして、それにまったく気づいていなかった。
「猫町」の主人公が「私はだんだん不安になり、犬のように焦燥しながら、道を嗅かぎ出そうとして歩き廻った」という気持ちを、私もあのとき感じていたことを思い出した。
「人家のある所へ着きさえすれば、とにかく安心ができるのである」「私は麓へ到着した。そして全く、思いがけない意外の人間世界を発見した」 そのときの安堵の気持ちと、そしてここはどこだろう・・・という気持ち。確かにあのときの私の中にもあった。
私は知らない街にいってわざと迷うように歩いてみたり、知っている町でも小さな路地やいつも使わない道に彷徨ってわざと迷うようなことが好きだ。そして、だれも通らないような路地を私は選んで歩き、そのような道を私は猫道と勝手に呼んでいる。
そういえば、彼が見つけた猫町が、都会の中に二重写しのように存在するのではなく、辺鄙な山の中にあるというのも面白い話だ。
著者は、小説の冒頭で「不思議の町は、磁石を反対に裏返した、宇宙の逆空間に実在した」と言っている。
そして「一つの物が、視線の方角を換えることで、二つの別々の面を持ってること。同じ一つの現象が、その隠された「秘密の裏側」を持ってるということほど、メタフィジックの神秘を包んだ問題はない。」という。
この小説の不思議な秘密の裏側は、よく知る都会の街の中にではなく、あまり知らない辺鄙な田舎の中にあるというのも私は面白いなと思う。
青空文庫:猫町