紙の本の隠れたコストと、それらをいつ読むか
パク・ミンギュの短編集『カステラ』を読んでいる。紙の本しかないので、紙の本で読んでいる。電車移動は最近はほとんどないが、たまに電車移動するときに読みたいのでブックカバーも買った。ブックカバーを買うのは何年ぶりだろう。
ブックカバーを買ったのは、最近、紙の本の積読が溜まっているからだ。いつも作業しているときに向いているのとは逆の背側の壁際に、大きな本棚をひとつと、6段の引出がある高さ90 cmほどのチェストをひとつおいているのだが、これまでは結構片付いていたチェスト上に20冊ほどの積読が横置きに文字通り積まれてしまっている。
部屋には扉のない書籍用のクローゼットがひとつあるので、そこから積んである分だけ本を売却してスペースを作って、積んである本を片付けるべきなのだがサボっている。
本が溜まるのは早い。20冊強が溜まるのに、おそらく半年かかっていない。実際にはKindleの中に大量の未読本が格納されているので目立たないが、本という生物は、絶対にうさぎなみの繁殖力だと思う。放置すれば野放図に増える。
読まない本は売るなど処分すべきなのだ。空間はコストだ。空間を占有するものは、その存在だけでも家賃に相当する見えない保管コストがかかっている。たとえば、都内に70平米のマンションが7千万円であったとすれば1平米あたりの費用は単純にいえば100万円だ。キッチン・トイレ・風呂・洗面所など不可欠の空間を除けば、実効的な利用可能面積はもっと小さいし、デスク、家電、その他もろもろの生きていくのに必要なスペースを確保していけば、実際に書籍の保管に避ける空間はさらに小さくなる。書籍の単価で1万円を超えるものはそれほどないし、そんな本を業務以外で買う人はいないだろうから、まぁ、平均単価が千円から2千円だとしても、実際に私たちが空間占有として払っている金額も含めれば、(空間占有の時間単価×時間)の費用が上乗せされていく。つまり、積読すればするほど、その本の所有費は増加していく。恐ろしいことだ。
だから、紙の書籍の積読は経済の観点からすれば《悪》だといえる。
「いやいや、まだ読んでいないけれど、読みたいと思った本が、身近にこんなにたくさんあるなんて素晴らしいことじゃないですか」
その通りだ。素晴らしいことだ。しかし、それは《贅沢》でもある。贅沢が許されないならば、《読まない本は処分》という身も蓋もない結論になる。
どんなに出版社が紙の本の良さを説いても、本好きの人が紙の本の読みやすさ、装丁にかける思いを語っても、それは考えようによっては「空腹だったらケーキを食べよう」と言われているのに等しい。
だから、基本的に本は電子書籍で買う。やむを得ずに紙の本を買ったときは、早々に読んで、有限のスペースの生存競争の荒波に揉まれてもらう。
次に行うべき判断は、いつ、どの程度の優先順位で紙の本を読むかだ。
「本は読みたいものを読みたい順に読めばいいのよ」
その通りだ。しかし、それではこれまでの経験上、(読みたい本の数>読んだ本の数)なのだ。必然的に本は増殖する。あたらためて言うまでもないじゃないか。《趣味:読書》と臆面もなく書ける私たちのような種族は、本という増殖する生物と折り合って生きていかなければならない。
それでも最近、少し新しい折り合い方ができるようになってきた。夕方、仕事を終え、夕食までの時間と夕食後に時間があれば、紙の本を読む。寝る前のベッドでは電子本を読む。朝も同様だ。ベッドを出たくないときは電子本を読み、朝の時間、かつては通勤に使っていた時間は起きて紙の本を読む。
この方法の利点は電子本が自発光であるということに尽きる。光が十分にある昼間ならともかく、夜、ベッドで本を読むと灯りの位置に難儀する。おそらく電灯が発明されて以来ずっと続いている共通の悩みのひとつだろう。電子本はこの悩みを解決している。いかなる方向に寝返りをうっても一定の明るさで本が読めるのは革命的なことなのだ。
このメリットを享受できない不幸な時代遅れの子である紙の本は、だから灯りが十分に一定量得られる姿勢で読める時間のものとするしかない。
都市部に住む読書好きにとって通勤は貴重な読書時間だったが、その時間はいまや自宅の書斎の机で費やすことができる。寝っ転がって本を読むのではないのであれば、この時間は紙の本のためだ。逆にいえばこの時間を十分に確保できなくなると本は滞留する。
最近は上記の棲み分け(読み分け)が確立してきたので、紙の本の読了率が上がっている。パク・ミンギュの『カステラ』も短編集なので、残り10日足らずで読了できるはずだ。
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