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超福祉展:クロージングセッション

今年で7年目となり、グランドフィナーレを迎えた超福祉展の最終日、クロージングセッションの第一部で登壇者の一人として、認知症フレンドリージャパン・イニシアチブ(DFJI)関連のお話を少しさせて貰った。

クロージングセッション第一部では、2014年から2020年にかけて「私たちは何を超えてきたか?」を、『障害者』『LGBT』『認知症含む高齢者』『子育て中の父母』『外国人』などさまざまな視点・立場から振り返った。

認知症フレンドリージャパン・イニシアチブ(DFJI)としての超福祉展に対する関わりは2014年の最初の年からになる。超福祉展はあえて渋谷をメインメッセージに打ち出しているが、DFJIが関わったのは川崎市の市役所第4庁舎で行われた「超福祉な日常~新しい可能性への展望~」というシンポジウムで、『多世代コミュニティを誘発する社会のデザイン』というテーマで話をさせてもらった。

渋谷ではなくあえて川崎。それはとても大切なことだと思う。クリストファー・アレグザンダーは『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー』の中で「全体性」と「センター」の理論について語り、15の幾何学的特性について語っている。アレグザンダーは建築の視点から幾何学的特性も空間的な意味あいで語っているが、彼も言っているように、それは建築に限られるものではない。「強いセンター」や「スケールの段階性」、あるいはセンターを強化には隣接する別のセンターからの部分的な補強が必要だとする「正の空間」、「対比」「共鳴」など、社会的な潮流が形成されていく段階においても意味的な幾何学的構造が求めれるからだ。

そんなことを考えながら今回のグランドフィナーレで投げかけられたテーマ『私たちは何を超えてきたか』を思うと、それはとても興味深く深い問いだ。

何かを超えるということはボーダーが存在するということになる。空間的構造にはボーダーが不可避だが意味世界においてはどうなのだろうか。そもそもボーダーは見えるのか? 見えるとすれば誰にか。見えないとすればなぜか。

『認知症』という文脈で考えるとき「見守り」や「やさしさ」がテーマになることが多い。そして、時に当事者の人たちはそこに違和感を感じるという。スティグマ(偏見)は誰にあるのか。内なのか外なのか。

「認知症」という言葉を「技術」に置き換えてみよう。下記の写真は2014年の超福祉展でのものだ。

岡田さん1

技術とは時に奇異に映るものだ。この写真は如何にも変な奴だろう。しかし、それはもしかしたら見るものの内になる偏見かもしれない。

ヘルメットのマスクにLEDを配置したこの未熟な技術が表現しているものは、実は「情報をまとう時代」の予感だ。個という容貌は失われ、電子的な記号が《私》だ。「Go」というメッセージに合わせてサムズ・アップしているのだ。ネットにアクセスするのではなくネットそのものをまとう時代、私と私以外の境界はどこにあるのか。

そして、やがてそれはごく当たり前のことになる。超えている人にとってはごく自然なカンファタブル・ゾーンとなる。であれば、超えるのではなく拡げることが本質的な課題ではないのか。拡げるとすれば、それは《誰》と《何を》なのか。

それが今までと同じ組合せであれば同じ結果に漸近するのは必定となる。自分たちを過信してはいけない。だからこそ、超福祉展には意味があり、画期的だったといえる。超福祉展7年間の取り組みが示ししているのは、新しい組合せを探る軌跡だ。

そんなことを思いながら、「自己紹介も含めて話してね」というリクエストに合わせて話をした。少し手前味噌だが、下記のURLはDFJI関連の話のタイミングに合わせている。使用したスライドもスライドシェアにおいてある。

もちろん、他の登壇者の人たちの話も刺激的だ。ぜひ全体もみてほしい。

また今年の期間中に行われた80にもおよぶ登壇のログもぜひみてほしい。それはきっと何かの予感、変化の予兆なのだから。


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