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都市モデルの仮説を再考させてくれる:エベネザー・ハワード『明日の田園都市』(新訳)
エベネザー・ハワードによって1898年に提唱され、1992年に「明日の田園都市」("GARDEN CITIES of To-Morrow")と改題されて出版された本書は「近代都市計画論」の古典として位置づけられている。本書は"田園都市"("GARDEN CITIES")という牧歌的ともいえる語感の表題を持つが、内容は産業革命後に急速に進んだ都市への人口集中に対する解決案の設計について記述している。
実際、第1章の『「町・いなか」磁石』では、冒頭から「読者のみなさんには、約24 km^2を擁する広大な敷地を考えていただきたい。そこは現在は完全な農地で、公開市場では1エーカーあたり40ポンド、つまり総額24万ポンドで購入したものだ。購入資金は、担保付き債券の発行で調達されていて、その平均金利は4%を越えないものとなる」ときわめて具体的な提案を行っている。
第2章以降も同様で、
「第 2章 田園都市の歳入と、その獲得方法 - 農業用地」
「第 3章 田園都市の歳入 - 市街地」
「第 4章 田園都市の歳入 - 歳出の概観」
「第 5章 田園都市の歳出詳細」
と歳入・歳出に関する概要が示され、第6章以降はその運用形態と各種疑問に対する解答という体裁になっている。
「第 6章 行政計画」
「第 7章 準公共組織 - 地方ごとの選択肢としての禁酒法改革」、
「第 8章 自治体支援作業」
「第 9章 問題点をいくつか検討」
「第10章 各種提案のユニークな組合せ」
「第11章 道の先にあるもの」
「第12章 社会都市」
「第13章 ロンドン将来」
ハワードの提案がハード面よりもソフト面を重視していることも重要だ。たとえば「第7章 準公共組織」では、「公共事業と民間事業との間にはっきりした一線を引くことはできない」としながら、都市運用の設計を前提として、商店や店舗を運営する個人や組織に対する提案の形態を取っている。
F. J. オズボーンによる序文(1945年/1965年の再刊時)と、新訳に際しての訳者あとがきは本書の位置づけを理解する上でのよい解説となっている。
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本書には都市のグランドデザインを再考するトリガーとしての価値がある。100年以上前に出版された本だが、拡大型の非平衡状態から少しずつ準平衡状態へと移行しつつある現代の日本において、都市の再設計に関する議論を改めてすべき時期にあるからだ。本書で述べられた提案がこれからの日本の都市のグランドデザインとして有用であるかどうかは問題ではない。重要なことは、時代の変曲点にあって、より具体的でかつ大規模なデザインに関する議論をハワードと同様に私たちがもっと活性化すべき時期にあることだ。
ハワード自身は「第10章 社会都市」でこう述べている。
現存するものは、存在できるかもしれないものをしばらくは妨害できるだろう。でも、進歩の波を押しとどめることはできない。こうした混雑した都市はその役目を果たした。おもに利己主義と強欲に基づいている社会が建設できるのはせいぜいがこんなものだったのだけれど、でも人間の性質の社会的な面が、もっと大規模に実現を求めている社会には、まるで適応していない。この社会では、自己愛そのものですら、同胞たちの福祉をもっと重視せよという主張をもたらすのだ。
今日の大都市は、地球が宇宙の中心だと教える天文学の著作がいまの学校では使えないのと同じくらい、同朋精神の発現には適用させられないのだ。それぞれの世代は、自分のニーズに合わせて建設を行うべきだ。そして先祖が住んでいたからというだけで人があるところに住み続けるというのは、ずっと大きな信念と拡大した理解のおかげで過去のものとなった古い信念を抱き続けろというのと同じで、別に物事の本性でもなんでもないのだ。
だから読者のみなさんは、自分が無理もない誇りを抱いている大都市が、いまのよう形ではまちがいなく永続的なものだなどと、無条件に考えないでいただきたいと、わたしは心からお願いするものだ。(p.239)
ハワードが提案した設計は「居住者の規模は3万人程度、土地はすべて公有かそのコミュニティのために信託化」という条件に基づくものだ。それは直ちに現代の日本に適用できるものではない。しかし、都市をアプリオリに捉えるべきではないというハワードの問題意識は、ハワードから100年を経た私たちにも訴えてくる。
彼の時代の前提と私たちの時代では社会的環境も社会的な課題も異なっている。しかし、彼の大胆ともいえる視座はk時代の大きな変曲点にいる私たちにとって、都市モデルの仮説の振れ幅を再考する上での試金石となりうるだろう。