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深く根を張った悲しみがあり、挫折があり、希望がある:上間陽子『海をあげる』

なぜこの本を図書館で予約したのかを思い出せない。Twitterで見たのか、参加している読書会のSNSのタイムラインで見かけたのか。

いずれにせよ引越した先の図書館で予約し、しばらく誰かの手元にあり、著者が誰なのか、エッセイなのか小説なのかも知らないままに借りた。

これがエッセイなのか小説なのかを私には言えない。強いていえば日記文学ということになるのかもしれない。

日記風の読み物が好きで、武田百合子の『富士日記』も何回か読み返した。日常のさりげない感想、その中での感情の起伏、淡々とした生活。

自分を含め、自意識ばかりが声高に語られる世の中にあって、日々と社会との境界が曖昧となる日記が好きだ。

そう思うようになったのは、ブルーノ・ワルターの自伝『主題と変奏』を読んでからかもしれない。若い頃のブルーノ・ワルターは日々起きたことを日記に克明に書き、反省し、よりよい自分であろうと努めていたという。そしてある日そんな日記が自分を傷つけていることに気づく。そして、少なくとも日記では日々を振り返って自らを傷つけることを止める。日記はもっと自由なものという彼の発見が、高校生の頃の私には新鮮だった。

上間陽子の『海をあげる』の語り口はシンプルだ。日々の思い、子どもの成長、何気ない会話、社会の中の自分が淡々と綴られていく。

恥ずかしい話だが、私は読みながらずっと泣いていた。舞台は沖縄。辛いこと、嬉しいこと、友人、子ども、社会。シンプルだが複雑な本と言ってもよいかもしれない。人の営みや関わりは他から見える以上に繊細で複雑だ。

日記には劇的なことは必要がない。過剰な自意識も不要。

ヘルマン・ヘッセの『知と愛』だったか『シッダールタ』だったか『ガラス玉演戯』だったか、人生はたった一人の人間と丁寧に生きることだけでも十分に豊かになるという主旨のことが書いてあった本当にそうだと思う。

私は傷ついた、私はこう感じた、私は、私は・・・。そう叫ぶことだけが感受性ではない。日々の営みがそれだけではないことを私たちは知っている。静かに見つめる。それが必要なことだとヘルマン・ヘッセを読んで思った。

上間陽子の『海をあげる』にそのような声高の叫びはない。もっと深く根を張った悲しみがあり、寄り添う気持ちがあり、挫折があり、希望がある。

シンプルなタイトルが、そのすべてを含んでいるかのようだ。余韻の中で、深い物語が私たちに何かを語りかけてくる。

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