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問いの問いを思う

永井玲衣『世界の適切な保存』をゆっくり読んでいる。最初は本を図書館で借りてきたのだが、なんだかゆっくりと読みたくなって、電子書籍版をKindleで読めるように購入した。図書館で借りた本の気になった部分をラインマークしながら一章ずつゆっくり読んでいる。

わりばしでアイスコーヒーかきまぜて映画になれば省かれるくだり
(岡野大嗣)

これは映画だったら省かれるな、と思うことが、わたしたちの日常にはある。あなたのよくわからない話は、いつかわたしたちの中から消えるだろう。あなたの眉間によせられた皺は、失われるだろう。ここに書いたとしても、それはやはりある仕方で切り取るしかなく、それ以外のものは忘れ去られるだろう。映像から、書物から、記憶から、省かれるだろう。

永井玲衣『世界の適切な保存』 「よくわからない話」

そうなんだよなぁ。たとえば夜のバスに乗っていて、たまたまApple Musicでブラームスの歌曲がかかる。映画だったら思わせぶりすぎる。でも、ただ流れてきただけだから、そんなに意味がない。そして自分以外の誰も知らない。なんだかいいなと思ったことも、窓の外の冬の田んぼの暗い道にパチンコ店の灯りが見えたことも。歌っているのはファトマ・サイード。エジプトの人だ。そういえばドロシーがアフガニスタンのことを話していたとき、エジプトの大統領が訪米を中止したニュースが流れていたっけ。

以前、筑波大の河野さんに頼まれて作ったプレゼンで《問い》をバウンダリー・オブジェクトにする話をした。《問い》が異なる人たちをつなぐ役割(バウンダリー・オブジェクト)になり得るというのは、いまでもその通りだと思っているけれど、自分しか見ていないことについてはどうなんだろう。それは何かと何かをつなげることになるんだろうか。

《問い》の《問い》。よい《問い》を考えることはそれなりに難しいけれど、一人遊びのように《問い》を考えるのだったら、《問い》の《問い》を考えるとさらに楽しいかもしれない。誰も気にしない、自分だけの《問い》の《問い》。浮かんでは消えるうたかたの《問い》。《問い》を《問う》ことで見えてくる《問い》の構造、見えてはこない《問い》の構造。

ハイデガー『存在と時間』のように世の中に声高に蘊蓄っぽい事を衒学的に叫ばなくても十分に面白いことがたくさんあるのかもしれない。

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