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フラットな視点に痺れる:ユクスキュル『生物から見た世界』

ユクスキュルの『生物から見た世界』は冒頭のダニの話が有名なので、私の中では「読んでいない本について堂々と語る」ことが可能な筆頭書籍でした。もちろん、『読んでいない本について堂々と語る方法』の著者であるピエール バイヤールが言いたいことはそういうことではありません。

読んだ上での私の率直な感想は「妄想がかきたてられる」です。私自身はキカイダー派なのでショッカーに興味はないのですが、改造人間の環世界はどのようなものかも興味ある話題です。

"環世界は先天性の部分と後天性の部分とはそれぞれどう位置づけられるのか"という視点にもつながるかなと思います。著者はその区別をあまりしていない(区別の必要を感じていない)という風に私は読みましたが、動物についてではなく人間系の話としてこの本を読むと、人の環世界の拡張、別の言葉でいうと成長や人生観の変化の話にも敷衍されていきます。

この本の全体に通じる著者の”区別しない姿勢"が私はとても好きでした。

まえがきで著者は、

環世界は動物そのものと同様に多様であり、じつに豊かでじつに美しい新天地を自然の好きな人々に提供してくれるので、たとえそれがわれわれの肉眼ではなくわれわれの心の目を開いてくれるだけだとしても、その中を散策することは、おおいに報われることなのである。

と環世界の魅力について語っています、その魅力のかなりの部分が、著者の"区別しない姿勢"ではないかと思います。

たとえば第十二章で著者は《魔術的環世界》について語ります。私自身は人の魔術的体験については否定的ですが、だからといってそれが"有る"とも"ない"とも外部からは言えないという著者の気持ちはわかります。だって実際、見えると言っている人には見えているわけですから。

知り合いでレビー小体型認知症と診断されている樋口直美さんに伺うと、「私にはびっくりするぐらいはっきりと見えている。それが本物か幻視かの区別は消えたときに初めてわかる」とおっしゃいます。

樋口さんの事例は《魔術的環世界》とは異なりますが、私にとっての《見えること》《見えないこと》の基準点のひとつが樋口さんです。

いずれにせよ、《魔術的環世界》の章で著者のユクスキュルは、人だからとか動物だからという区別をせず、少女の話とホシムクドリやメンドリの話を併記しています。そしてこの章をこう結んでいます。痺れます。

こういうわけで、いずれの主体も主観的現実だけが存在する世界に生きており、環世界自体が主観的現実にほかならない、という結論になる。 主観的現実の存在を否定する者は、自分自身の環世界の基盤を見抜いていないのである。

環世界の話が想像力をかき立てられるのは、個々の人もそれぞれの環世界に生きているからでしょう。私は映像記憶や視野角が得意だった一方、左右の視力が大きく異なっているために動くものや距離感を掴むことが苦手です。見覚えのなる場所や印象に残る建物は意図せずとも記憶に残っていますし、方角の変化にもそれなりに敏感です。一方でドロシー(カミさん)は場所や人の顔の区別が苦手で「なんでこの二人を似ていると思うんだろう?」というくらいに別の世界を見ているような気がします。一方で彼女は聴覚に優れていてモノマネがびっくりするぐらいに上手いのです。イタリア語の先生には「あなたも発音と同じくらい意味がわかっていたら本当に素晴らしいのにね」と褒められたんだか腐されたんだかわからないことを言われていましし、アメリカ人にも「Makotoの発音はよくわかんないけれど、ドロシーはいいね」と言われ、私は非常に悔しい思いをしました。余談です。

同じものを見ている、聞いているといっても、それが本当に同じなのかどうかはつくづくわかりません。著者が第一章の図11a,b,cの街路風景で示したように解像度(私は分解能という言い方の方が好きですが)も違いますし、図12の最遠平面も違います。

私は視覚系だったので、以前は駅の地下街でも道に迷うことがほとんどありませんでしたが、年を重ねるとどうやらこの最遠平面が狭まっていくようで、駅の雑多なサインを見逃しがちになるようです。でも良いのです。

これもまた知り合いで若年性アルツハイマー型認知症と診断されている丹野智文さんは「会社にいくでしょ。自分の席がわからないんだよね。だから自分のジャンパーを椅子にね、かけておくんよ」と言っています。「それにさ、わからなくなっちゃうこと、会社のみんなにも言ってるから、あれ、どこだっけ?って普通にきけんのよ」とも言います。みんなそれなりに工夫して自分なりに生きているのです。

別の知り合いはものすごく映像記憶に優れていて一瞬だけ見たかなり長い文字列を、目をつぶって逆に読んでいくことができます。でもあんまり羨ましくはありません。彼女がみている世界が私にはよくわからないからです。

別の知り合いは「私はドラマとかサスペンスが苦手なの。ほら、ちょっとした目ぶりとか仕草で、なんか怪しいぞっていう記号が示されるでしょ。あれがほとんど読み取れなくて、なんでこうなったという筋がわからないの」と笑っていました。彼女はテキパキ型の人で仕事はコンサルタント的なことをしていますが、困っている風でもないので、きっと何か別のことで補完しているのでしょう。

さきほどは視覚系とエラそうに書きましたが、私は色についての分解能は低いようです。「クリスマスの赤といえば"キャンディ・レッド"」と言われて本当にびっくりしました。私にとってはクリスマスは、"白・赤・緑、以上"なのです。どうも私は光のスペクトルを感じ取る分解能はあまり高くなかったようです。一般化していえば、時代が進み、明かりや光が人工光になっていくほど、私たちの視覚の色の分解能は劣化していくかもしれません。

「妄想がかきたてられる」という意味では、植物に環世界は存在するのかという答えのない質問も面白いと思いました。『生物から見た世界』の原題は、Streifzüge durch die Umwelten von Tieren und Menschen(動物と人間の環世界への探索)とのことですから、そもそも本書のスコープ外の話題ですし、図3の機能環には、"知覚器官"と"作用器官"による"主体の内的世界"と"客体"とが"知覚世界"と"作用世界"を介して結ばれているシステム図が描かれているので、そもそも"知覚器官"や"作用器官"の定義から改めなければいけなくはなりますが、妄想だからよいのです。たぶん、植物にも環世界は存在すると私は思います。では石には? うーん、ないと思った方が私には自然です。石も転がれば円くなりますが、それはシステムというよりは単なる物理的な形状変化だと捉えるのが適切だと私には思えるからです。

じゃ~、ロボットはどうかといえば、それはそれで面白いかなと思います。別にロボットの意識や意志の話がしたいわけじゃありません。それはもうさんざんされているし。

それよりも私が面白いと思うのは、たとえばHAL9000のように非常に多数のセンサー系を有するシステムの環世界です。ネットワーク型の生き物の環世界といってもよいかもしれません。たとえばカツオノエボシ。1個体に見えても実は多くのヒドロ虫が集まって形成された群体(成長の過程で幼体が複数の生物に分化し、群れをなす)の環世界。アニメでいえば、攻殻機動隊のタチコマです。

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彼らにゴーストがあるかはアニメシーズンの中心テーマのひとつではありますが、それはまた別の問題として、瞬時に情報共有が可能な並列知性の環世界は妄想をかき立てられます。

テレパシーはSFの定番のギミックですが、真にテレパシーが発達した社会に生きる生体の環世界は果たしてどんなものでしょう。私たちもカクテル・パーティー効果に相当する情報処理によって、不要なものは切り落として情報処理をしています。インターネットバブルの話がしたいわけではなく、もっと異なる変質、すなわち、量が質を変える世界の可能性もあるわけです。

いや、そんな大袈裟なものを持ち出さなくても、たとえば空を飛べるだけで、実は私たちが思っている以上に違う世界なのかもしれない。

そういえば、結びの章も面白かったです。天文学者の環世界、原子物理学者の環世界という話です。確かに物理にバックボーンを持つ人と化学にバックボーンを持つ人では同じ理系でも相当違うような気がします。機械工学の人はどんなものにも応力が見ているように私には思えますし、建築を専門にする人に対しては、彼らは文系じゃね?という偏見すら抱いています。

そのようなちっぽけな私を温かく笑うようにこの本はこう終わっています。

自然研究者のさまざまな環世界で自然が客体として果たしている役割は、きわめて矛盾に満ちている。それらの客観的な特性をまとめてみようとしたら、生まれるのは混沌ばかりだろう。とはいえこの多様な環世界はすべて、あらゆる環世界に対して永遠に閉ざされたままのある一つのものによって育まれ、支えられている。そのあるものによって生みだされたその世界すべての背後に、永遠に認識されえないままに隠されているのは、自然という主体なのである。

なんか良いなぁ~と思います。

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