汚れつちまつた悲しみに今日も小雪の降りかかる:シュペルヴィエル『海に住む少女』
と呟きたくなるときがある。別にいまさらピュアぶるつもりはないのだけれど、シュペルヴィエルの短編集『海に住む少女』は、あまりにキラキラとした水のようで、読み進めるのが少し辛かった。
美しい幻想が自分の中で枯れてしまったことがわかるというのは哀しいことだ。
もう海に行く若さはない。海は疲れる。少し前まで川の近くに住んでいた。多摩川の支流、三沢川がうちから65mほどのところを流れていた。川ぐらいがちょうどよい。
少し引いた感じて読んだ本だったけれど、読書会に参加して話を聞いているうちに「ああ、この短篇集は最初に私が感じたのよりもずっとずっと暖かくて優しい物語かもしれない」と思えてきた。短篇集のあまりにピュアな印象に、私は少し過剰に寂しくなってしまっていたのかもしれない。
例えば「飼葉桶を囲む牛とロバ」。いろいろな動物がイエスに会いたがる。読書会に参加した他の人が言う通り、言われてみるとそれぞれの生き物がとても可愛い。最初に来たのは毒をもった生き物。
蛇たちの健気さ。こうして文章を写経していると、なんだか泣きたくなってしまうほどの可愛さだ。
微生物たちは飼葉桶のまわりを一周まわるだけで1時間もかかってしまうし、ライオンのまわりには大きな静寂が拡がり、まわりにいた誰もが切なくなる。ふわふわの羊はなぜか「いますぐ毛を刈ってほしいとしつこく」頼むし、カンガルーは子どもをプレゼントしようとする。
そしてなにより牛が可愛い。牛は優しく、そして悲しい。最後の瞬間、ヨセフが出て行くとき、ヨセフは扉の音で牛が起きてしまうのではと心配します。でも、牛は眠ったふりを続ける。
「ラニ」や「足跡と沼」も奇妙な話としか思わずに読んだが、読書会で話をするうちに南アメリカの幻想小説をみるような気持ちになってきた。
幻想的という言葉には幾つも軸があるのかもしれない。キラキラとした透明な軸もあれば、土着の引き剥がすことができない何かという軸もある。後者は、ある意味、泥のようだったり、あまりに唐突な激しさだったりもする。
同じグループの人が「この短編の全体に流れるのは死」と言っていた。その通りだと思う。生の対義語としての死。
ただ「ラニ」や「足跡と沼」の中の死はもっと激しくて、生の対義語というよりは「存在すること」の対義語のようにも思える。「存在すること」と「存在しないこと」が生と死のようにはくっきりと別れておらず、どこからどこまでがそうなのか境界がわからなくなるような、そんな感じ。
面白かったのは、短篇集の表題にもなっている「海に住む少女」。最後の一文はこの小説の肝であり呪いだ。でも、宮崎駿ならこの最後の文を書いただろうか。もし宮崎駿が「海に住む少女」を映像化したら? もし「海に住む少女」が少女ではなく、少年だったら? あるいは年配の女性だったら?
「少女」であることがこの作家の作家性なのかもしれない。でも私は思わず妄想してしまう。もしこの話が年配の女性だったらと。それは少女であり年配の女性である「ハウルの動く城」のような物語になるのだろうか? 「海に住む少女」の物語が1000年、あるいは、2000年続いたら少女には何が起こるだろう。
私は宮崎駿の作った話の中では「崖の上のポニョ」が一番好きだ。実は津波の後、老人ホーム「ひまわりの家」の人たちと宗介の通う保育園の人たちはみんな死んでしまっていないのか? もしかしたら、宗介は冒頭のシーンで死んでしまっていないのか?くるくるくるくると妄想が止まらない。
「空のふたり」はもっと不思議な話だった。でもやっぱりどこか優しい。少し怖いけれど、不思議な希望がある。
キラキラとしたものをもう一度眺めてみたいような気持ちが少しだけ自分の中に戻ってきたような気がする。
そういえば、若い頃、天景という詩が好きだったことを思い出した。
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