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わかるの守破離とその価値
《わかる》ってどういうことかよく考える。
「なんだかよくわからない」と思っている状態は、《モヤモヤする》という言葉で置き換えることでひとまずポケットにいれておける。
「わかりたい」という人が多いなと思う。先日も「ハイデガーの存在と時間をわかるためには、西洋のキリスト教的なバックグラウンドを理解しておかないといいけませんかねぇ?」と尋ねられた。
そんな風に考えることは「よりよくわかりたい」ということなのだろう。でもそんな風にバックキャストしながら進んでいくと自分が前に進んでいるのか後ろに進んでいるのかわからなくならないだろうか。そのときに一緒にいた別の人は「わかっていることにこしたことはないかもしれません」という間接的な言葉で答えていた。それは正しい知恵だと思う。そうなのだ。きっとわかっているにこしたことはないのだ。私もそう思う。でも、仮に、もしそれをわかっていなかったらいけないのだろうか? それもなんだか違う気もする。
《モヤモヤする》とき、私はそのモヤモヤをポケットにいれたまま《グルグル》と歩き回るようなことをする。エラい人はここで参考文献なんかを読んだりするのだろうけれど、私はそうではない。《モヤモヤ》したまま《グルグル》と考えている。
《モヤモヤ》《グルグル》しているというのでは遠くにはいけない。効率もよくない。つまり、コスパが悪いのだ。でも、そうしないと行けない場所もあるんじゃないかなと思う。《わかる》というのは実は効率の悪い行為なんじゃないだろうか。
守破離という言葉がある。意味は誰でも知っているように「師匠の教えや型を忠実に守り、その型を発展させていき、最終的に独自の型を確立する成長段階を示す言葉」で、教えを請う、あるいは習うことに対していう言葉だ。
だから本当は誤用なのだけど、師匠がいなくても、誤用であっても、《わかる》ための行為は、《守破離》と似た構造があるのではないかと思う。
《モヤモヤ》《グルグル》としている状態が《守》。「あれ、なんだかわかったような気がする(かも)」という瞬間が《破》。その事柄についての《モヤモヤ》《グルグル》《わかったかも》という状態が気にならなくなって、《なんだか当たり前》と思える状態が《離》。そんな風に《わかる》の《守破離》があるんじゃないかと思う。
わかるの《守》は、ちょっと我慢もいる。わからないで《モヤモヤ》しながらも《グルグル》することを続けないといけない。格好よくいうと、Nagative Capability(不確実さや未知、疑いを受け入れる能力、または現時点で解決できない事態に耐える能力)というのだろうけれど、《モヤモヤ》《グルグル》は放っておくと楽しくない気持ちになってしまうから、もう一歩踏み込んで、《モヤモヤ》《グルグル》は楽しい!と思えないと《わかる》の《守》は辛いばかりだ。
辛いのは誰だって嫌だから逃げることになる。それがコスパなのだろう。
でもなぁ。ほんのときどきだけれど、《モヤモヤ》《グルグル》していた状態から視界が広がる《破》っていう状態に届きそうになることがあるんだよなぁ。もちろんそれでもしばらく《モヤモヤ》《グルグル》するし、そうやっているうちにいつのまにか《破》は超えてしまって《離》になっていることがあるんだよなぁ。それはそれで案外に楽しいものかなと思う。
そうか。これからは、「ご趣味はなんですか?」と尋ねられたら、「《わかる》の《守破離》なんです」と答えるようにしようか。
うん、きっと嫌われるだろうなぁ。