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子どもの頃の事件

小学生の頃の出来事や事件には、はっきりと覚えていることもあれば、記憶が曖昧ではっきりしないこともある。

アポロ計画の月面着陸(1969)は小二だった。人類が月に着陸することに子ども心に興奮していた。着陸の瞬間をみたいと強く思っていたが、眠さに負けてしまった。

「着地の瞬間は絶対起こしてね」と親に頼んだのに。翌朝、「そうだったっけ」とシラッと言われた。いまでも親を少し恨んでいる。だから、翌年(1970)に開催された大阪万博にはとても行きたかった。行って月の石を自分の目で見たかったのだ。

「行くなら家族でだけど、それは無理!」と即答で拒否られた。『20世紀少年』の主人公たちの気持ちがよくわかる。彼らは一学年上の世代だ。

よど号事件(1970)は、起きたのは3月だったので、まだ小二だった。そのときに初めてハイジャックという言葉を知った。事件というものに「へ~」と思った最初かもしれない。

当該機と同型のボーイング727型機(Wikipedia)

三島由紀夫の割腹自殺(1970)も同じ年だ。私は小三になっていた。同級生に聞くと、「びっくりしたよね。ずっとテレビを見ていた」という。私にはまったく記憶がない。そのことを大人になってから会社の上司に話した。「三島をよく渋谷のバス停でみたけれど、網シャツ姿で変な奴だったぜ」という。知らんがな。三島由紀夫は私には遠い人だった。

会社のその上司は、上司だから少し年上で、1972年は大学受験の年だったという。「それがあんまり勉強してなくてさ、よーしやるかぁ~と思ったら札幌オリンピックだろ。つい見ちゃったんだよなぁ。で、そのオリンピックがやっと終わって、よーし勉強しようと思ったら、浅間山荘事件だろ。勉強している訳にはいかないよな」なんて言っていた。上司は変わった面白い人だった。

浅間山荘事件(1972)は冬だった。私は小四だった。浅間山荘事件のことは、はっきりと覚えている。私が全共闘世代嫌いなのは、子ども心に、「あんなことをして世の中が変えられると思っているのだろうか」と感じたからだ。

その後、フェデリコ・フェリーニの映画、確か『8 1/2』(1963)で再びあの鉄球を観ることになる。

1972年の浅間山荘事件と同じ年に、川端康成が逗子でガス自殺した。自殺した場所は、私の夏の蟹取場の近く逗子マリーナだった。ノーベル賞を貰ったことも知っていたから、「ノーベル賞も貰ったのになんでかなぁ~」ぐらいには思った。

田中角栄の『日本列島改造論』が上梓されたのも1972年だ。こまっちゃくれた嫌なガキだったので、近所の本屋に『日本列島改造論』を買いに行った。さすがに内容がよくわからず、買うのは止めた。

当時のマイブームは、ハタキで追われながら古本屋をハシゴしてマンガを読むことだった。仮面ライダーシールが爆発的に流行ったのは確か小三の頃だったと思う。私はキカイダー派だった。テレビじゃないんだよなと、ちっとも旨くないのにシールを得るために仮面ライダースナックを買う同級生を軽蔑していた。『地下室の手記』が心に痛い。

大学生たちは『明日のジョー』に熱狂していたが、私は『巨人の星』派だった。『巨人の星』が完結したのは1971年だが、たぶん読んだのは小四~小五の頃だ。天童よしみが主題歌を歌った『いなかっぺ大将』もこの頃の話だ。

テルアビブ空港乱射事件も1972年だった。しかし、日本人が関係する事件というぐらいにしか思っていなかった。

三菱重工爆破事件(1974)は中一だった。浅間山荘事件でも感じた「テロや暴力では何も変わらない。無関係な人を巻き込む事件に正義はない」という思いは私の中で強くなった。

1974年は、宇宙戦艦ヤマトがテレビアニメとして始まった年だ。当時もひねくれ者だったので「松本零士なら『男おいどん』だよ」と友人と話すような子だったが、1973年に出版された『ノストラダムスの大予言』は信じていたし、『日本沈没』(1973)も自分事に感じていた。まさか同じ世代が1995年にあんな事件を起こすとは思ってもいなかった。コスモクリーナーはそれ自
体は空想上のSF的な面白いギミックに過ぎないのに。

子どもの頃はベトナム戦争の時代にも重なる。『戦争を知らない子どもたち』(1970)という歌がよく唄われていたが、ベトナム戦争は私の意識の中にはあまりない。『博士の異常な愛情』(1969)の世界は私が子どもすぎた。ただ、核戦争について漠然とした恐怖を感じている世代ではあった。

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