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さすがにそれは違うかもと呟いた:太宰治『黄金風景』
ナオミ・フェイルの「バリデーション」という本を読んで以来、自分の子どもの頃の思い出や記憶とどう折り合いをつけていくかをよく考える。そして少しずつ、ひとつひとつ、自分の中の記憶や、あのときのこだわりとの和解を続けている。
私とドロシー(妻)は小学校・中学校の同級生で、私の弟も小学校・中学校の同級生と結婚した。聞けばドロシーの両親も小学校の同級生だという。恋愛至上主義な世の中にあって、なんと凡庸な、まるでタイムスリップしたような人生の選択をしているのだろう。
以前参加した短編読書会:太宰治『黄金風景』で、「主人公が好きか」と尋ねられた。
魯鈍であることを厭う主人公の気持ちがわからないわけではない。優れていること、非凡であることは憧れだ。
一方、とても短い作品の中で、主人公は自分でない何かに憧れ、自分ではない何かを依存し、模倣し、そして何かに急かされるような人生を歩んできたようにも思える。だから、正直にいえば、私は主人公の彼のことがあまり好きにはなれなかった。
他律的であることが必ずしもいけないことだとは思わない。私もまた、振り返ってみればずいぶんと他律的だった。けれど、彼は私たちとはまた異なる意味で、他律的な人生を送ってきたのではないのかと思える。
主人公の彼が最後にいう「これは、いいことだ。そうなければ、いけないのだ。かれらの勝利は、また私のあすの出発にも、光を与える。」という言葉も、小説のタイトルが『風景』と名付けられているように、どこか他者目線のお話にすぎない気がするのだ。
勘とでもいうのだろうか、「こいつはまた同じことを繰り返すな」と思わずにはいられなかった。皮肉な見方かもしれないが、私は彼を信じることができないのだ。
もちろんこれは、あくまでも私がそう感じたということにすぎない。
そんな話をしているうちに、読書会では著者の作者としての技巧の話になった。
その前日の短編読書会で読んだ課題図書『藪の中』の芥川龍之介の頭の良さが《作り物の作り方》の上手さだとすれば、太宰の頭の良さは、自分の駄目さを面白く描くという《自分の駄目さ加減を客観視する上手さ》ではないかというような話だ。
そうこうするうちには「この『黄金風景』という話、吉本新喜劇っぽいよね」という話になった。いわれてみれば、適宜、ギャグを交えさえすれば、このお話、吉本の舞台の脚本として十分に成り立ちそうだ。
たしかに肩を蹴った筈はずなのに、お慶は右の頬ほおをおさえ、がばと泣き伏し、泣き泣きいった。
「親にさえ顔を踏まれたことはない。一生おぼえております」
うめくような口調で、とぎれ、とぎれそういった.
「おまえ、蹴ったのそこちゃうやろ」
折角の太宰の頭の良さが楽しく台無しだ。化学反応には可逆反応と不可逆反応があるが、さすがにそれは違うだろう。『黄金風景』の吉本化はあまりに危険であまりに楽しい。
海と山との違いこそあれ、「黄金風景」と「富嶽百景」には通底する憧れと諦観の構造があるようにも思える。山梨の御坂峠と呼ばれるあの峠には何度も行ったことがある。確かに風呂屋の書割だ。
読書会のときに「太宰治を読むと落ち込みませんか」と尋ねられたが、私はまったく落ち込まない。それは、中島みゆきを聴いても落ち込まないけれども、松任谷由実を聴くと落ち込むのと少し似ている。
ずいぶん以前の年の暮れに子どもと一緒に江ノ島に行った。冒頭の写真は「オマエら爆発しろ」と思いながらそのときに撮った写真だ。