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心の鎖国の始め方

この前から心の鎖国についてぼんやりと考えている。考えているうちに「これは案外と良い方法ではないだろうか」と思うようになってきた。

ひとつには、きっと歳を取ったのだろう。テレビや音楽を煩く感じるようになってきたのだ。子どもの頃や若い頃は音楽を流し、テレビをつけていても集中して本を読めた気がしていたものだが、いまやそれがまったくままならない。クラシック音楽であっても音が鳴っていると集中できない。隣の部屋から聞こえてくるかすかなテレビの音も気になる。考え事をするのに無音が必要になっている。

読書もそうだ。乱読なので手当たりしだい、それこそメンソレータムの効用書きでさえ読んでいないといられないと思っていたが、最近は読むという行為に一定レベル以上のエネルギーが必要で、無闇になんでも読んでいてはカラータイマーよろしくすぐにエネルギー切れになってしまう。

人との関係もそうかもしれない。KYを《空気は読まない》の略と考えて、厚顔無恥に生きてきたが、面の皮もだいぶ薄っぺらくなったのか、おまじないの《いぬねこいぬねこ》を唱えないとやってられない。自分の愚かしさを棚にあげ、他人の短慮や薄っぺらい行いが痛みとなって伝わってくる。ああ、なんでこの人たちはこんななんだろうとウンザリする気持ちにダメージを受けてしまう。本当に身勝手な見方だ。

たぶん、《世界》を作ってその中で生きることが上手だったのだろう。音楽も読書も自分を守ってくれる《世界》だったのだと思う。しかし、いつしか、そんなこともないなと思い始め、世界を作る魔法は消えた。

身も蓋もなくいえば、脳の処理速度が落ちたのだと思う。複数のことが同時に出来たのは、別に脳の平行処理能力が優れていたわけではなく、これまでは適当に時分割したりカットオフしながら処理をしていたに過ぎない。その処理が間に合わなくなってきたのだと思う。どうでもいいことに影響をうけやすくなってしまっているのも切り替えて別のことに集中する力が落ちている、そういうことなのだと思う。

だから、最近は音楽をかけずに本を読んでいる。寝るときもアイマスクをして、時には耳栓をして寝る。場合によっては耳栓は日中でもしている。そして比較的こまめに寝る。特に午後は15時頃に1回横になって目を瞑る。そうやって5分から10分じっとしていると少しすっきりしてくる。

視覚情報、聴覚情報などの物理的なインプットを下げ、アウトプットもせずにじっとしている。

それが私にとっての心の鎖国の最初の一歩だ。

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