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ウェットで乾いた感覚:能町みね子『結婚の奴』

二村ヒトシさんが選書する猫町倶楽部の分科会「二村組」の読書会『結婚の奴』に参加した。

私は著者の能町さんをまったく知らなかった。接点はゼロどころかマイナスと言ってもよいかもしれない。二村さんが選書する読書会に参加しなければ、私は能町さんのことを知ることもなく、能町さんの本を読むこともなく、人生を終わったのだろう。

ゼロとかマイナスという言い方は、あまり正しい表現ではない。それはひとつの数直線上の話だから。数直線は、AとBとが右か左か、多いか少ないかを表現するには便利だし、ゼロ点をどこに取るかによって絶対値を相対化したり、2つの距離を測るのにも便利だけれど、それはある価値観の軸の上での表現にすぎない。

だからこの場合は中学校でならった《ねじれの位置》というのだと思う。東京とか日本とか同じ空間にいながら、これまではなんらかの平面すら共有せずに暮らしてきた《ねじれの位置》。

考えてみれば、そんな《関係》は社会では当たり前のことで、あえて《ねじれの位置》などというもったいぶった言い方をする必要はない。私たちは本質的には他の誰かのことを知っているわけではないし、たまたま同じクラスだったり、たまたま近所に住んでいたり、たまたま会社で同じ部署になったりするだけなのだから。だったら《結婚の奴》もたまたまで、たまたま出会ってたまたま結婚したりもする。

読書会の後、能町さんを交えての雑談の時間があった。能町さんは「自分は運が良かったかもしれませんね」と言っていた。たまたまの相手にどうしたら出会えるのか。それは運が良かったから。

「その気持ちはなんとなくわかる」気がする。能町さんとの違いは、能生町さんが少しだけ私たちよりセンシティブで、自分の感情や行動に自覚的だということなのかもしれない。私たちは自分たち自身についてあまり自覚的ではないし、なんとなく《そういうもの》ということで済ませていることも多い。そんな風にも思える。

読書会の後の雑談の時間に二村さんは能町さんに「この本はエッセイですか? 小説ですか?」と問いかけていた。二村さんも能町さんも「これはエッセイというよりは、ひとつの小説」と捉えているのだろう。少し唐突な感じの"グータンヌーボ"から"アークロイヤル"の、主に雨宮さんについて書かれた4つの章も、これはひとつの《小説》なのだと考えれば腑に落ちる。

"アークロイヤル"の終わり近くはこんな感じです。

ああ、私も彼女も、なんて勝手なんだ。人に勝手に期待し、勝手に裏切られた気分になり、勝手に失望して泣いたり死んだりして、まるっきり子供じみていた。なんてバカバカしい心の動きだろうか。改めて強く思う、なんでこんな幼稚な、人を愚かにさせ、視野を狭くさせる感情を世間は称揚しているのか。紙が破けんばかりの筆圧で心のなかに書きつける。二度とこんなことするものか。

雨宮さんが亡くなって一年半くらい後だったろうか、アイフォンを買い換えてデータを移し替える作業をしているとき、私はうっかり操作を誤り、LINEの会話履歴がすべて消えてしまった。バックアップもなかったため、雨宮さんと交わした、服のこと、アクセサリーのこと、恋愛のこと、仕事の愚痴、気に入らない人たちのこと……、LINEでの長々とした会話は一瞬にして世の中から永久に消えてしまった。

いまはそれでよかったと思っている。

そして、この章はこんな言葉で終わる。

結局私は、あの会話のあと、加寿子さんにも会っていない。タバコももちろん、もうまったく吸っていない。

加寿子とのことも、たまたまの出会いだったことして能町さんは描いていることになる。

エッセイ風に日常を描いているようにみせながら、そのウェットで乾いた感覚がこの《小説》の魅力なのかもしれません。

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