痛みは内からか、外からのものか:郡司ペギオ幸夫『天然知能』
5月の連休が始まる直前の水曜日から右側の胸が痛くなった。といっても胸の奥ではなく、皮膚が痛い。痛いエリアは少しずつ拡がり、今は右側の背中あたりまで痛い。ものすごく痛いわけではなく、ぼんやりと痛くなった。
症状としては帯状疱疹の可能性が強いなと思い、連休が始まる前に早めに抗ウイルス剤を処方して貰えないかと翌4月28日の朝、皮膚科に行った。
先生曰わく、「帯状疱疹の可能性が高い。けれども発疹が出ないと確定が出来ない。確定が出来ない段階だと痛み止めしか処方できない」とのこと。納得できる説明だったが意味がない。痛み止めをもらって帰宅した。
この痛み止めがさっぱり効かない。いや効いていてこの痛みなのか。ジタバタするほどの痛みはではなく、キーボード操作だけなら全く問題がない。つまり仕事には支障がない。支障はないがちょっと動くと痛い。歩いても痛いが歩けないわけではない。微妙な状態が続く。それが改善せず、ただ痛い。
痛みは私にとって内部なのか、外部なのか。『天然知能』の著者の郡司ペギオ幸夫氏なら答えてくれるだろうか。
『天然知能』で著者が問題にしている《川床が痛い》かどうかは私にとっては問題ではなく、私は胸が痛いのに、それは私の内部なのか外部なのかがわからないことが問題だ。痛いなぁ~と思いながら『天然知能』を読む。
「痛み」は来るものだから、内部であっても外部だ。私にとってその「痛み」に理由や根拠もない。医師は著者が定義するところの【人工知能】として私を診る。処置可能な対象かどうかだけが問題だから、発疹のない私に医学は冷たい。
4月30日、土曜日、発疹はまだ出ていない。が、ぼんやり赤みを帯びている気がする。なので、皮膚科の看板もあげている駅前の内科に行ってみる。夕方だったせいかだれもいない。すぐにみて貰える。けれど、先生はすごくやる気がない。連休は休みたかったのに当番だったのだろうか。
痛いです。。。と訴えるが、「症状が出てないねぇ~」とやっぱり冷たい。冷たいと感じるのは痛いからだ。「検査によってウィルスの状況を調べることができるが、一週間ぐらいかかかる。それまでにはきっと発疹がでるだろう。発疹はこんな感じね」と、本棚にいって関係する本を取り出し写真を見せてくれる。やる気はないが郡司さんの定義するところの【自然知能】っぽいアプローチで対応してくれる。いずれにせよ、痛み止めは既に処方されているので、お互いに何もできず終わる。
病院に来たのに、お互いに了解の上で何も出来ないこの感じはちょっと新鮮な体験かもしれない。病院で感じるぐずぐずなダメ感。
それしても痛い。だから、そう、私はきっとスパイにはなれない。この程度のぼんやりとした痛みにさえ弱い。捕まったらきっとすぐに仲間のアジトをしゃべってしまうはずだ。
「スパイになれそうにないね」とこのぼんやりとした痛みと対話することは著者の定義する【天然知能】っぽいアプローチだろうか。
ここでいう《あなた》が今の私にとっての痛みだ。辛いのがなんとかなる痛みだ。著者は川床に落ちた痛みについて語るが、内側からやってくる《痛み》のことを考えただろうか。定義もコントロールもできない自分の《外》である《内》からやってくる《痛み》のことを抽象化してくれるだろうか。
人はみな「なにかになれるかもしれない」「ああしたい」「こうしたい」ということを考えている。そういう思いが、自分の内側や外側の自分にとっては外部の何かによって阻害される。まったく予想もしなかったことによって阻害される。原因など本質的には存在しない理不尽な出来事に出会う。強烈に出会うときもあれば、ぼんやりと出会うこともある。そういう状況にアナタの【天然知能】は対応できるのか。
八つ当たりだと思う。困りごとが生じているとき、その困りごとには直接関与出来ない事柄や思考に対して、《解決にならん!》というのは人工知能的なアプローチであり、八つ当たりだ。著者が悪いのではない。それにきっと著者は良い人なのだろうと思う。八つ当たりをしてはいけない。
そんなことを、世間的に大したことではない痛みの中で考えながら、郡司ペギオ幸夫さんの『天然知能』を読了し、読書会に参加し、振り返る。