○○だったら面白い
養老孟司という人があまり好きではなかった。AERAの巻頭コラムを養老孟司が書いていた時期があり、「なんだか論理の飛躍が多くて、読み苦しいな」と思っていた。世間では『バカの壁』がバカに売れていて、「それ自体がなんだかバカの壁の内側にあるようだ」と斜に構えて考えていた。『バカの壁』自体も面白くはあるのだけれど、でもやっぱりなんだか詰めた論理がないような気がしていた。
そういう、あまり好きじゃない人と、少しずつ和解をしている。《石田純一》があまり好きではなかったが、彼とはだいぶ前に和解できた。もちろん、先方は私を知らないのだから、一方的に嫌って、一方的に和解している。一人相撲とも言えるが、私にとっては《嫌い》=>《和解》というプロセスをいろいろな部分でしているということなのだ。ちなみに《小澤征爾》とは未だに和解に至っていない。
ナオミ・フェイルの『バリデーション』に書かれていることを踏まえて、自分自身の過去の考えや囚われを自分なりの応用した、validationのプロセスといえるかもしれない。ここで私が思う《validation》は、ナオミ・フェイルが『バリデーション』という本の中で言っていることとはずれてしまうかもしれないが、勝手に《過去との対話と内省的検証》という風に思っている。
実は、《養老孟司》とも和解することができた。《石田純一》よりもずっと時間がかかったが、「まぁ、そういう人なんだろう」という割り切りができた気がする。
たとえば、それは、「幽霊なんていない」と思うのではなく、「幽霊がいたら面白いかも」と考えてみることに似ている。《養老孟司》という人が話したり書いたりすることは、そんなに大したことだとは今でも思わないし、論理も飛躍しているけれど、「それはそれで、まぁ、いいんじゃない?」と思うことにしたということに他ならない。
そんな風にすると、養老孟司的に「幽霊なんていないというのではなく、幽霊がいたら面白いと考えてみる」ことができる。それは、異世界転生とかギリシャ神話とかと同じ構造なのかもしれないということが感じられてくる。南無阿弥陀仏で天国に行けるとか、神様がいるとかもいいかもしれないと思える。
デメリットは、「雷は神が怒っている」とするのは面白いことだが、それがいつのまにか「神が怒っているから○○せよにすりかえられる」点だ。その辺りの詰めが甘いので《養老孟司》が嫌いだったのだけれど、まぁ、それはそれ、これはこれと考えることで和解できたのだ。
ガルシア=マルケスの『百年の孤独』でも、なんだか幽霊と現世の人が当たり前のように普通に一緒にいたり、話したりしている。幽霊となったホセ・アルカディオ・ブエンディアを息子で次男のアウレリャノ・ブエンディア大佐は見ることがなかったが、「それは誰のせいでもない」と考える方が豊かな気がする。見えても見えなくても《人》はそこにいる。見えたら面白いが、見えないからいけないというわけでもない。
養老孟司と和解できたのは、そんな風に思えるようになったからなのだ。
訪問していただきありがとうございます。これからもどうかよろしくお願い申し上げます。