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抗って生きる

抗って生きる。人生の理想は抗わない生き方だろう。しかし、私は抗うことに決めた。2024.1.4 体重 83.2 kg。私は抗って生きる。

抗って生きることは、上から目線で生きることだ。

誰が決めたのだ。上から目線は悪だと。矜持を持って生きること、疑いを持って見つめること、そのためには、上から目線が必要ではないのか。

お互いが上から目線を同等、もしくは下から目線で眺めることだけは真なのか。そもそも真偽を問う段階で、それは上から目線ではないか。

真偽を問わない態度は立派な場合もある。しかし、真偽を問わない態度を良しとすることは、また別の上から目線ではないのか?

ワークショップで時々「今日はお互いに呼ばれたい名前を使って対話しましょう」という輩がいる。「普段のあなたの立場や肩書きを外して話すためです」という。笑わしてくれる。フラットに話すことが疑似的な仮称を使うことによってしか達成できないとなぜ決めつける。私たちの存在とは、私たちの人生の積分とは、そんなことで変わる程度のものなのか。あるいはその程度のものだと思っているのか。

「でも、そうできない人もいるし、無自覚に立場や肩書で話してしまう人もいます。普段の名前でもフラットに語ることができるのは強者なのです」

もっともそうなことを言うものだ。

しかし、それは本当なのか。肩書や立場があると本当にフラットには話せないのか。「今日呼ばれたい名前で・・・」と強要することに偽善はないのか。嘘やペテンはないのか。

それは、どこか、「某○○」という言葉遣いをする人の態度に似ている。わかっている人だけわかる言葉遣いの鼻持ちならなさを嫌悪する。某○○ということで言葉の責任を回避し、自らを安全な場所に置く。こういうのを悪の究極の上から目線だと呼ぶのもありだろう。

しかし、これは上からの目線なのだろうか。言葉によって場を曖昧にし、周囲のものも巻き込んで特殊な空間を作り出すことが。空を高く飛ぶ鳥のような眼差しがそこに生まれるのか。

露悪趣味も同様。「最近、忙しくってね」という忙しさ自慢。「俺も昔は悪でさ」というのと同じように頭が悪い。心を亡くして自慢する。それは相手もまた貶めようとする卑しい行為だ。

友人の三宅さんはかつて「馬鹿が馬鹿を生む」と云った。確かにその通りなのだ。悪貨が良貨を駆逐するのではない。悪貨が悪貨を止めどもなく再生産しているのだ。自らを良貨と称するのも上から目線ではない。上から目線とは、悪貨が悪貨を止めどもなく再生産していく様を、半ば茫然としながら立ち尽くすことなのだ。

上から目線に力はない。目線でしかないからだ。しかし、俯いて目線を下に向け、あるいはキョロキョロと当たりを見回しながら立ち位置を探ったり、ただ無自覚に上を見上げてばかりいたいのだろうか。それが私たちが目指す生き方なのだろうか。

私は、上から目線と謗られようとも、なぜ上から目線ではいけないのかと考え続けたい。上から目線への忌避感を疑いたい。

私は抗って生きる。

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