歳時記を旅する 4 〔夜の秋〕
竹林に風のはなれず夜の秋 土生 重次
(昭和五十八年作、『扉』)
中国の南宋の詩人、楊万里(一一二七~一二〇六)は、『夏夜追涼』で、「夜熱依然午熱同/開門小立月明中/竹深樹密虫鳴処/時有微涼不是風」と詠む。夜の暑さと言ったらまだまだ昼と同じで、門を出てしばらく佇む、月明かりの中、竹はうっそうと樹は濃く茂り虫が鳴いた。その時ふっと涼しくなった 風も無いのに・・と。
晩夏の夜など、虫の音も聞こえ始めて、秋のように感じることを「夜の秋」として夏の季語と定めたのは、「ホトトギス」雑詠選者の虚子だとされている。
句の竹林では、竹が風に揺すられているのだが、こちらにはいつまで経っても風が吹いてこない。音もなく揺れる竹の林に秋の気配を感じた。
夜の秋淀みに消ゆる川の音 佐野 聰
(平成十年作、『春日』)
楊万里と同じ頃の日本では、西行(一一一八~一一九〇)が、京都の北白川の人々と歌会で何度か詠み合っている。水辺で暑さを避けて涼を得るということを、「水の音に暑さ忘るるまとゐかな梢の蝉の声もまぎれて」と詠む。北白川の水辺での車座になっての集いは楽しいものです。梢での蝉時雨も、流れる水の音にまぎれて、暑さを忘れてしまいます、と。
また、松風が秋のようだと北白川の人々が詠んでいることに対して、西行は「松風の音のみなにか岩ばしる水にも秋はありけるものを」と詠んで、秋の気配は水の声にもあるのだと言った。いずれも『山家集』の「夏歌」の項に収められていて、秋の歌としていないところに、自然を愛する西行の繊細な季節感がある。
句は、暑さの残る夜に川辺を歩いていて、淵のような淀みに来たら水の音が聞こえなくなったという。その時、川の音に秋が訪れていたことに気づいた。
尾を立てて寄り来る猫や夜の秋 磯村 光生
(平成九年作、『花扇』)
猫が尻尾を垂直に真っ直ぐ立てる時は、嬉しさや甘えたいなどの感情を表している。特に、尻尾を立てる状態でゴロゴロとすり寄ってきた時は甘えたがっている証拠。
夜になって、尾を立ててすり寄ってくる猫。人間よりも早く、秋の訪れを感じ取って、それを教えに来てくれたに違いない。
(俳句雑誌『風友』令和二年七月号 「風の軌跡―重次俳句の系譜―」)