文化庁は公然と憲法違反をやっている:社会の「真善美の価値評価」の舞台を守るのが近代国家の大原則(現代国際社会の常識)である。
近代国家は、社会に属する人たちが表現する「真善美の評価」を、自らが主体的に行うことはできない。これは、近代世界が歴史において繰り返してきた「国家が宗教を扱う際に繰り返された殺戮行為」に終止符を打つために反省的に生まれた「大原則」である。
あらゆる人間の表現の真善美の価値評価は、公権力たる国家ではなく「社会」自らが決めるのであって、そのための諸条件を整える舞台作りをするのが国家の役割である。各種補助金や後援活動は、それを目的にしている。
舞台作りのみならず、豊かな社会の価値観の発露を阻む様々な障壁を、公権力は除外しなければならない。「あいちトリエンナーレ」という恫喝の被害者に対して(「ガソリンを撒くぞ!」)、「消火器1000本と警備員を1000人」を提供して、表現活動の場を守るのが公権力の仕事である。
しかもその仕事は、いずれも社会の表現する真善美の内容に踏み込むことなく、それを擁護するため、「法技術的に」、あくまでも「手続き者」の立場を逸脱することなく、粛然となされねばならない。
明治国家建設の父たちによって、近代制度を機能させるために作られたソフト・ウェアであり、藩屏ではなく「日本人」を作るために、急遽「致し方なく」暫定的に真善美の基準を国家が提示したのが、あの「教育勅語」である。内容は「考えるな。天皇の赤子として手本を覚えよ」である。
そうした「真善美を自分たち自身ではなく、上から与えられる心の習慣」を作る装置が、その後に我が社会にどれだけの惨禍と不幸をもたらしたかは、歴史をわずかに遡れば分かるはずである。
国家の政治的、道義的敗北を「自分の頭で考えて止める」ことに失敗し、自国民310万人、1500万人の近隣国民を死に至らしめたあの戦争である。
こうしたことを克服するために、自律的かつ自立した個人が参集して、自由に活動する権利と実践に「国家は介入してはならない」という厳命をしているのが、憲法21条なのである。検閲の禁止である。
繰り返す。
国家は真善美の基準を社会に押し付けてはならない。
それをやるのは、近代「以前」の君主国家か、自由も民主主義も捨てた独裁国家である。
「真善美の基準」を国家が押し付け、それを容認すれば、自分たちでそれを熟成させる、「自分の頭と身体でものを考える」人間を未来に生み出すことができない。
正気に戻れ。
政治家は党派を超えて、己の足元を掘り崩す政府の愚行を撃て。
現場にいる官僚たちよ。徹底して「合法的サボタージュ」をせよ。
この事態を受けた社会の木鐸よ(ジャーナリズム)。声を合わせよ。
真善美の基準を国家に指定されたくない全ての表現人よ。抗議せよ。
それをしないと、もう世界の芸術家は我らの社会では、すべての表現活動を止めてしまうだろう。それは、金銭では評価できないほどの打撃を我々の社会にもたらす。
誰も表現しない、誰も表現しに来てくれない社会を、暗黒社会と呼ぶ。
いつかやろうではない。
今やらないと、我々の「終わりの始まり」がまた大きく進むだろう。
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