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2021年の芸術祭の見られ方/DamaDamTal「熊をやめた熊」(Nakanojo Biennale 2021 Prelude exhibition)

2007年から始まった「中之条ビエンナーレ」は今年第8回を数える。第一回開催時、会期開始直前の伊参スタジオに行き(当時は伊参スタジオ=木造校舎の1室が実行メンバーの拠点だった)山重徹夫ディレクターに「面白そうなので、個人的に映像を撮らせてください」とお願いした。そのアーカーブは今もyoutubeに残り続けていて、今現在アート関係の映像仕事が多いのはそのはじまりがあったから、だと自分では思っている。

さて。2021年の中之条ビエンナーレは、コロナ禍対応が求められる芸術祭となった。先月行われたPreludeのエキシビジョン、大塚陽とみきたまきからなるDamaDamTalと、シンガーのマンハッタンスリムによる「熊をやめた熊」は告知なし/観客なしで行われた。僕はその撮影・編集を担当。動画が公開となった。

DamaDamTal「熊をやめた熊」
https://youtu.be/kdn_khd2CfU

はじめに。「山に暮らしていた熊が、アート(中之条ビエンナーレ)に関心をもち、熊をやめて人里に降りてくる」というコンセプト自体は、昨年11月に行われた「おうち旅ルミネ meets 中之条」の際にDamaDamTalによって即興的に発案された。旅ルミネとは、商業ビルとして認知されているルミネが「地方との関係」を重要視し、佐渡や最上、そして中之条といった地方と連携。コロナ禍前はリアルに東京と地方を人が行き交う企画などがされたが、昨年は「お客さんがPCを通して、画面越しに中之条町を旅する」というリモートツアーが行われた。その際、町内各地を回る際のつなぎ役兼パフォーマーとなったDamaDamTalは、マンハッタンスリムと共に先述した「山に暮らしていた熊が〜」というおとぎ話のような世界観を展開した。上記動画のエキシビションは、その延長上にある。

DamaDamTalと僕が映像制作をする際には、雑談のような本気のような、アイデアを出し合って即興で撮影する、というスタイルが定着しつつあるのだけど、今回は「熊を撮影する」→「撮影=shooting=発砲」→「熊、というか熊っぽい人たちを撮影する人って、猟友会、というか猟友会っぽい人が良くね?」ということから「撮影者の存在もあえて映像に残す」という選択肢をとった。一緒に猟友会っぽい人となって撮影してくれたのは、中之条ビエンナーレでスチールとして入っている永井文人さん。そして

猟友会が山に罠をしかけるように、猟友会っぽい人は山に監視カメラっぽいカメラ(go-proを使用)をしかける、という構造をつけ加えた。

話は離れて。コロナ禍以降、「リアルにお客さんを入れられない展覧会を伝えるにはどうすれば良いか/映像はその手段になりうるか」という相談や問題に直面した。現に、いろいろな美術館や芸術祭で、写真やテキスト、映像を通して鑑賞してもらえるような努力がされている。僕は、映像を作る人のわりに「映像よりもリアルがいいっすよ」と素直に思うタイプなのでなんでもかんでも映像というのは違うと思うのだが、そうも言っていられないし、やるからには良いものを残したい。

ある種、映像を通して対象を映す、ことの最もリアルなものは監視カメラ映像かもしれないと思う。が、それすらも「どこにカメラを設置しどう向けるか」という主観を取り除くことはできない。そして、監視カメラの映像だけで満足できるほど、今の人間は映像に対して寛大ではない。だから猟友会っぽい人たちは意識的にカメラを動かし、対象に近づき、離れ、撮影を行った。

コロナ禍により、実際の体験の代わりとしての映像が増えてきた今、「その映像は、誰によって、どのように撮影されたのか」「それはリアルな鑑賞とどう違うのか」を考えることは意味のあることだと思っている。そして2021年9月11日から始まる8回目の「中之条ビエンナーレ」は、どのような展開を見せるのか。ぜひとも注視していただきたい。

中之条ビエンナーレ
https://nakanojo-biennale.com/

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