web報告 No5 20220421. 「来るものは拒まず、去る者は追わず」

web報告 No5 20220421

「来るものは拒まず、去る者は追わず」
対象          横山忠志さん  遠州横須賀ちっちゃな文化展 広報奉行

インタビュアー     プロジェクトサポートスタッフ 深野裕士
                                         音楽の架け橋メセナ静岡 高橋晃一郎

日時場所       2021年10月18日  プラザ大須賀

コロナ感染症の影響で『ちっちゃな文化展』から『ちっちゃなちっちゃな文化展2021』に名称変更されています。今回はインタビュー形式で掲載をしています。

まちを元気にしたい!から始まった

遠州横須賀倶楽部は、昭和59年9月1984年に立ち上げているので、設立から30年になります。倶楽部が発足した理由には、現在のイオンタウンの場所に旧ヤオハンが出店することが、昭和57年(1982年)ごろから地域での話題になり、横須賀街道の普通の商店街は、もう生き残れないかもしれないとの思いと、対抗するにはどうしたらよいのかという思いで、行政と商工会青年部が共同商業環境研究会を作って2年間研究をしました。いちばん最初に、日本における商店街の流行の最先端の場所という視点から横浜市の元町商店街に行き、「何をしにきたのですか?」と元町と横須賀あたりでは条件が違いすぎるとみなさんから言われたこともありました。その調査をおこないながら、古い街道の街並みを生かしたまちづくりやいろいろなことを勉強するようになりました。2年間の研究を終えて、『偶然に現代まで江戸の文化が残ってしまった横須賀という地域をフローではなくて、ストックとして今までの資産を活かしてまちづくりをしましょう』と提言書を作りました。研究をして報告書を出してハイ終わりで前に向かないことばかりなので、この提言書を実際に形として実行する団体を作っていかなくてはダメじゃないかとみんなで話し合っているときに、静岡県庁から地域自治体に出向できている山村さんが、まちづくりの仕組みに詳しい方で、遠州横須賀ルネッサンスという名前で、地域の良さを見つめ直すことで、まちづくりをやってみたらと提案をいただきました。ここはかつて横須賀藩があった場所なので、団体の組織を藩のパロディーのようなもので作ったらどうかということで遠州横須賀倶楽部をはじめました。

まちの資源を生かした取り組みに ~活動を継続することで生まれたつながり~

倶楽部を始めたのは、いいけれども、実際に何をしていいかわからないってことで、最初は、まちおこしのセオリーに従い、まち歩きをして、人を案内しながら、自分たちが勉強する。その頃、新潟の黒川村で牛を1頭丸焼きにするというイベントを知って、平成元年から横須賀でも始めました。そのおかげで横須賀という街は、結構、巷(ちまた)で知られるようになりましたが、始めた時から、仲間内では、牛を焼くというのは横須賀としての背景があるの?それは必要なの?という議論はありました。牛の味付けをする天然醸造醤油だとか、酢だとか、塩だとか、調味料の「さしすせそ」を全部地元で作っている。それで牛を焼くという無理矢理に理由をつけたりもしたのですが、7回開催して「これはやはり違うかな」と思っていた時に、O157問題が起こったので、ここで「牛焼き」は中断をし、何をしたらいいかなと考えました。倶楽部の中の一人が街道型の展覧会みたいのが、まちおこしの形として面白いんじゃないかと言い始めました。その人は日本全国のアーティストの方と親交があって、文化展の活動の第2回目の2000年に東海道400年祭と文化展の助成金をもらいました。結構な予算で、300万円の予算で、イベントが組めることになりました。1年前の1999年に、予算も何もなく、町中の20ヶ所で24人25人のアーティストに参加してもらって、自分たちでちょっとちっちゃい版を実験的に実施しました。初めて実行するときに、この地域の人に、このイベントの特徴は、普通の民家にアーティストに入ってもらって、お客さんが来て、家の中で作品を見る。家主の皆さんには、横須賀の人が、横須賀のまちの人の、民家を見ることを活動の対象にしますが、地元以外の人も来て、「なるほど横須賀の街はこんな家々があるんだ。」「江戸の威厳がちょっと残っているね。」と話ができて、自分の街の家や横須賀という場所に自信を持って欲しいという思いではじめんたんです。
文化展をいちばん最初に開催するときのスタッフみんなの心配事は、このイベントは自分の家の中にアーティストを入れて、家の中に作品を展示して不特定多数の観客が家のなかに入ってきて見る。そんな突拍子もない話を貸主みんなが理解するのだろうかという不安だったのです。会場に予定した構えの古い家を中心に、イベントに説明と協力をお願いしにお伺いにいきました。そうしたら「何をやりたいかわからんけんが、お前らのやるこんじゃぁ、信用してやるよ。」と、反対どころか、あっさり賛成をしてもらったのです。それで第1回が成功して、2回以降は、説得の仕方も、だいぶできるようになって、最初の牛を食べたりした、この10年間は無駄じゃなかったなというのが嬉しかったですね


深野
街のために頑張っていると言う姿が見えていたので、信頼ができていたって言う感じですね。横山さんは倶楽部の発足当時から所属していたのですか?

横山
その最初の2年間の時は私は商工会の宣伝部という行政の立場にいて、広報をやっていました。ただ商工会の宣伝部の位置だけだと、やはり人ごとになってしまうので、発足当時から部員として入会していました。その部員には農家の人とか社会人とか、我々行政マンとか、部員の80%は商工会の青年部の人たちですが、女性も入会してもらって、スタートしました。その頃には大学の先生や社会学者にもご意見を聞いたりしました。そんなことをやりながら、この倶楽部のスタイル(=まちの色んな層の人たちが参加する)ができていきました。役割の名前も城代家老とか、私が広報奉行のような名称を使い、話題にもなりました。ユニークなまちづくりを続けてきて、ある種、自分たちがやるべきことが、この『ちっちゃな文化展』で結実したみたいな感じになりました。

『ちっちゃな文化展』を動かす人たち
深野
全員がボランティアみたいな感じでしょうか。

横山
クラブに入会すると、月2000円の会費を収めてもらって、年間24000円かかります。女性は12000円。会費を納めて入会すると、もれなくさまざまな雑務や面倒がついてくる。全部で40人の部員がいるのですが、専業主婦もいて、なかなかイベントや会議に参加できない人も含めて、全員が会費を払ってくれるので、それを原資に、多少の補助金も入れながら資金を回転させて、現在に至ります。それが『ちっちゃな文化展』の最初の成り立ちになります。


深野
運営で参加される方は10人から20人ぐらいだと思いますが、この規模の文化展を3日間やるとなると、その駐車場の整理とか、いろんな案内や準備で、人手がかかると思いますが、会場のボランティアさんの皆さんについて、どのように考えられていたのですか?


横山
最初は、自分たちができる範囲でやろうということで始めたのですが、第3回目位から、人が押し寄せて来るようになった。どんどんお客さんが来ちゃうものですから、メイン会場の駐車場警備のようなところは警備会社に頼んで、メインではないところはシルバー人材センターに頼み、7回8回を過ぎた頃に、地元の学校から中高校生で、文化展にボランティア参加をしたいという学生たちがいますと連絡がありました。今では横須賀高校の学生たちが、ボランティアで運営に携わってくれています。この『ちっちゃな文化展』は、芸術家の方々に対するお礼がなく、そのかわり宿泊をするのであれば宿泊費は補助する。3日間はここにいてもらう、その時の食事としてお弁当を出す。そのお弁当を配る仕事を横須賀高校の生徒さんたちにやっていただいています。だんだんと協力者が増えてきて、何とかこの規模で、3日間はイベントができるまでにはなりました。

深野
だんだん参加者が増えてくると、もう一つ問題のボランティアさんへの説明とか、マネジメントという問題が出てくると思うのですが、そのあたりは、どうされていたのでしょうか?


横山
自然になるようになるって感じで、開催前に説明会を開くようなことはありません。

深野
ボランティアでスタッフをやりたい方がきた時にはどうされていますか?


横山
基本的には、中学生のボランティアは、本部にいてもらって、資料の挟み込みや、パンフレットをお客様に渡したりする仕事。お弁当配りは、高校生のボランティアに参加していただいています。シルバー人材に関しては、駐車場整理、警備会社には横須賀城址など、メイン会場の警備です。それに、これだけの規模でやっていても、道路使用許可を取っていない。できれば自動車による会場内の通行は遠慮してくださいと言っていますが、基本的に車両通行はOKです。10年前20周年の時に、会場が人でごちゃごちゃしてきて、事故があれば怖いねということで、道路使用許可道路占有の許可を取ろうとして、地域の総代さんたちにお話をしましたら、それだと文化展の3日間、普段の暮らしが制限されるから、「いやだ」と言われて、今のままでやりましょうということになりまして、現在までそのまま規制もなく開催しています。1回だけ自動車に通行人が接触したこともありましたが、これだけ会場が混雑していると、確かに自動車は、ゆっくりしか行けないので、今のところ、大きな事故はないです。

深野
そのあたりは上手にバランスをとりながら、お互い気を使いながら運営がおこなわれている感じがしますね。

横山
運営の補強をするようなことが、あとから出てくるのは自分たちも不思議だなぁと思っています。案内の人が欲しいと思ったときにはボランティアが関わってくれる。交通がごちゃごちゃしているときは、街の人が向こうに行けば駐車場があるよと案内をしてくれて、配布するパンフレットを自分たちでもらいに来て、まちの人が自分で配ってくれるんですよね。自分たちも観光施設に来た時には芳名帳を書いてもらうのですが、その芳名帳をもとにダイレクトメールを送ったりしていたけれども、口コミとかもまちの人がやってくれることになり、今年(令和3年度)本当に『ちっちゃなちっちゃな文化展』で、倶楽部がコントロールできる会場だけで活動していこうと、当初は7、8箇所の会場だけで文化展を開催しようと思っていたら、開催するなら「なんで俺のところつかわんだ?」と言ってきた人が、7人出てきて、最終的には19箇所になりました。


深野
倶楽部の活動は、最初に牛焼きがあって、他にもいろいろな形があったけれども、民家を使って文化展をやろうよと話がでて、実際にやってみたら、横須賀の街の方皆さんの好意的な理解があって開催できてということですね。それが1回2回とそれを開催することによって、街の良さを改めてみなさんが知って、自分たちのプライドを思い起こしてもらうこと、だんだん皆さんが開催へ向けて積極的に協力してきた。そうなってきた。


横山
ここに20回分の表紙があります。昔からの古民家と横須賀街道に、気を遣ってくれて建築された新しい家を交互に表紙にしています。このように気を遣ってくれている街並みというのは、この建築に補助金が出るわけでもないし、街の建築のガイドラインもない。でも、ここはお客さんが通ってくれるから、モダンな住宅ではなくて和風を意識した住宅や建築物にしましょうとみんなが勝手に考えて気を遣ってくれる。いちばん最初にスタートした時も、この訳のわからないイベントに住宅を貸してくれたということも含めて、街全体で、私たちの活動を肯定的に見てくれているなぁというのは感じました。


深野
それは、誰かが音頭をとってというわけでもないのですか?


横山
そうです。結局、実績をみて、みんながそういう方向で考えてくれたと思います。

深野
30年前というと、皆さんがまだ30代くらいの若い世代ですよね。街の雰囲気は、街の若いもんが、なにかをやりだしたから応援してやるかみたいな感じだった。大体そのような活動をやろうとすると、そんなのめんどうくさいからというところもありますね。しっかり広報をしないと、何をしているのかわからないから、伝わらないじゃないかと怒る人もいたりして。そういう感じではなくても、何かやっている姿を見ていてという感じですか?

横山
ガイドブックは横須賀の街のここに行くといいよとか、イベントのお知らせは、全部手書きです。それで、この街の、ぬくもりとか体温みたいな感じが、街のみんなに伝わったのかなあという気はします。倶楽部の大番頭だった茶碗屋さんが、ずっとこの文化展のガイドブックのことを担ってこられたのですが、残念なことに昨年亡くなってしまったので、以後このあたりは、私がやらなくてはいけないなと思っています。手書きのこのスタイルは受け継いでいかなくていけないだろうなと思っています。当時からそういう人の集まりが倶楽部の中心にいたということです。文化展が始まった時に、一度に30人のアーティストに来てもらって食事は提供するけどけど、何もしない。口も出さない。アーティストたちは、この文化展は、普段なら美術館なんかに絶対に足を運ばない人が、わざわざ自分のところに来てくれる。それがすごい刺激だからということで、私も出たいって人が、だんだん増えてきた。その間の街の様子は、都市計画とか、老朽化したり、後継者がいなかったりして、どんどん、古民家が更地になって、一番多い時で古い家は100箇所くらいあったんですけど、いまは65から70箇所なので、作家さんを選ばないといけなくなってしまって、一時期は、登竜門という、オーディション受けてくださいというのを3年ぐらいやりました。Aという人は合格したけどBという人は落選という基準は、この出展者のジャンルが重なりすぎるからちょっと違う方を選ぶとか、このジャンルの出展者が欲しいとか、私たち素人が、その人のアート性を基準にして選んでいるわけではない。現在はその登竜門はやめてしまい、作家さんに声をかけて展示の場所を決めて展示してもらう。登竜門だと、今まで展示してくれた方も省いていかなきゃいけなくなるときがあってそれが辛かった。一人二人は、倶楽部の人間がこの人はいいなと思う人を連れてきたりしていて、結局は人のコミュニケーションで成り立っているまちづくりで、狭いなあと思います。

深野
作家さん達とも、コミュニケーションで成り立っているということですね。

横山
特徴としては、この街で、自主勝手に開催することを自主展と呼んでいますが、勝手に作品展示をする、物を売り買いするという場所が、正規の展示する場所65に対して200。今まで2回自主展の人たちに登録してもらって、案内地図に掲載したのですが、自主展の参加者が出展をしているという意識がなく、勝手に名前を変えたり、辞めちゃったり、場所が違うとクレームが来たり、2回で頓挫して、私たち倶楽部は、誰が出店をしているのか、知らないことにしますということになった。でもその自由な出店の楽しさで来る人もいるんです。街の人が家の前でガレージセールやフリーマーケットみたいなことをして楽しんでいただくのは、私たちとしてはウェルカムです。でも地元の人ではない、よくわからない知らない方が出店をして、その三日間だけ売って帰って行ってしまう。本部に来場したお客様からあの店のことを教えてと言われてもわからない状態が今の悩みです。できなくなったらそれでおしまい、でもいいと思います。

深野
今年は運営の方は何人ぐらいの方が、関わっていらっしゃるのですか?

横山
8人くらい。まぁ、みんなが喜んでくれるということで、その中心となるスタッフは、大変だねと言いながら、ニコニコしながらやってくれています。その他の倶楽部活動の部員はその8人をサポートして活動をしています。普通に考えて、毎年の会費24000円を払って、よくも付き合っていただいているなあと思います。

深野
残りの皆さんが有力なサポーターということですね。

横山
そうです。展示をやって、来客数が増えれば、歓迎されると思います。

深野
これからの活動はどういう未来をお考えになっているんですか。

横山
城代家老は、私たちが力尽きたら、文化展はそれで終わりと言っています。横須賀のスタイルを、一つのモデルケースとして、それを踏襲できる人がいるかどうか。いなければやる意味がない。形だけを残して、例えば文化展をイベント会社に委託して、アーティストの皆さんを呼んで、地元の会場に貸し出しに関してはなんとかなるかもしれませんが、その形でやることには意味がないだろうと思っています。今は行政からの250万と協賛金プラス自主で400万の予算で、やっていますが、私たちの倶楽部ではない別の組織でやれば、間違いなくその金額では、開催はできないです。普通の行政の補助というのは、半額補助ですが、いまでも文化展は大須賀町時代の静岡県の補助基準の基準でやっていて、平成16年までが大須賀の基準でやって、合併後の掛川市になっても、うちのイベントだけ3分の2はもらっているんですね。400万のうち250万が補助金です。我々の経費の主要な部分がお弁当などの飲食費と宿泊費です。他のイベントでは、そこは補助金対象外ですが、文化展はそれがないと開催ができないって主張をしています。

深野
そのつながりこそが、文化展開催の命綱なので、それを維持するための経費だと言うことですね。横須賀以外ではやれそうでやれない感じがしますね。

横山
街道型のアート展というのが、日本中あちらこちらにできました。参考にしようと思ってお伺いをするのですが、横須賀のような、独特のスタイルでやっているところがない。どこの街道型のアート展も、お店ごとに展示はあって、そこに作家さんはいなくて、観客がずっと動いて見ている。『ちっちゃな文化展』は地元の民家に展示をしてもらい、その場所に作家さんたちがいるというのがスタイルです。開催期間の3日間は作家を拘束するのですが、作家も色々な方とお話ができて、作家さんも自分の立ち位置や評価がわかるみたいなところで、喜んでいただいている。原泉のHaraizumi Art Days!が、うちのイベントに感覚としては近いかなと思います。

深野
自主展を含めると、日本中あちらこちらで開催されているマルシェのようなクラフト展があります。越後妻有とか、瀬戸内芸術祭とかの規模になると作家も地元の皆さんも一緒になって参加をして作りながら、しばらくそこに作家が滞在をしてというケースはありますが、3日間一緒に時間を過ごすという時間軸のなかで開催期間中は作家さんがそこにいて、いろいろなお話をすることを目的としているアートイベントは、あまりないかもしれませんね。ところで、会場となる民家を貸してくださる方へ謝礼というのはあるのですか。

横山
謝礼はあります。開催期間中の電気代として、実費みたいな金額をお支払いしています。あと毎年、先ほどお話しした『さしすせそ』の醤油とかで、一軒あたり、4000円程度のお礼をしています。実は観光協会大須賀支部と横須賀倶楽部で、4分の3はメンバーが被っています。観光協会では、三熊野大祭、お祭りを題材にしたカレンダーを作っていますが、一番のお客さんは横須賀倶楽部なんです。作家さんとか、会場を貸してくれた方にカレンダーを配っています。


深野
民家を貸してくださる方は、もちろんサポーターの方達で、それはボランティアに近い位置なのでしょうか?


横山
私が思うには、ボランティアという言葉は超えていると思いますね。開催期間中は生活が制限されて、しかもコロナがこんなで誰が来るかわからないのに。私たちも遠慮をして、『なんでお前ら、うちに話に来ないんだ』と言ってくれる人が現れたりする。


深野
それはその貸してくださる方々に、なぜそこまでやってもらえるのですかと聞いたことはありますか。

横山
聞かないです。なぜそのように言ってくれるかわかるからです。毎年来てくれて、お客さんたちと話すのが楽しいんでしょうね。いくつかの家では家の間取りを文化展仕様にリフォームしている。リフォームまでしているのに、なんでうちの家を使ってくれないのと言われて。私たちも「えーっ」と答えるしかなくて
深野
それは頼んで貸していただいているというよりも、自分たちが楽しくなっている。

横山
そういうところだと思います。空き家になっているから、好きに使ってくれていいよというのが、7件中4件。

深野
家の中に風がはいることや場所が使われることに対しては、肯定的ですね。空いているので、貸してくれと言っても、いやここはねと言う理由をつけて、借すことを、嫌がるケースとか少なくないと思いますがどうでしょうか?


横山
僕たちもそういう話が多いと思っていたけど、なんでも貸してくれるというので、

深野
そのあたりについていろんなアートイベントのところにお伺いをして、聞いているのですが、最初は好意でやってきたことが、だんだん負担になり、最初はたのしいからやったけれど、だんだんと参加する期待値と提供されるもののバランスが悪くなってきて、ちょっと止めたいなと思う。または辞めてしまう方が多いみたい。そういう話があんまりないというですね。

横山
倶楽部から辞めたいはないです。もし、貸してくれなくなって、みんながお断りしますとなったら、それは文化展のやめ時だろうと思いますし、アーティストさんも3日間居てもメリットないからもういいよと言われたらやめ時ですね。そこまで我々はやっていきたいなと思ってね。

「まちの人、よその人、それらをつなぐひと』がいてうまくいく
深野
長い間の紆余曲折がありながら、多様性という意味では豊かになっているですね。文化展が成功した秘訣はどこだとお考えになっていますか?

横山
一番はスタート時に理解をしてくれた家の貸主の人。その次に、有利だと思えない条件で3日間付き合ってくれる作家さん。最後は二つをバックアップしたいという思いがあるスタッフだと思っています。

深野
その三位一体ですか?

横山
そのどれが欠けても、このイベントは、瓦解してしまう。

深野
その三位一体を保つために、特別気にかけていらっしゃることとか、これはちゃんと守ろうねとかみんなで共有していることは何かありますか。

横山
自分の普通の生活での日頃のお付き合いを大事にしていく。主婦の人もいるけれども、イベントをやっているんだからといって地区の用事をほっぽらかして文化展をやるような人間は一人もいないです。根本的にはみんなが文化展を楽しんでいる。文化展を開催する嬉しさを自分達もガソリンにしている。基本的に街の人が喜んでいるというのを見て喜んでいるスタッフの気持ちが一番のマインドです。

深野
外から見てすごく特別で、楽しんでいるイベントと思っていたけれども、よくこれだけ長く続いているなとも思っていました。

横山
アーティストの方にも言われました。アートイベントって長く持っても10年単位だけど、ここはすごいね。と言われてしまいます。この点については、私たちは無自覚です。トラブルがあっても笑い話にすり替えるし、文化展を最初に作った人が言っていたのは、自分達がやっているのは義務じゃないから。それは一番気楽なところでとやりましょうと言っていました。

深野
文化展は日常生活の一部としての心がけとお付き合いのベースの上にできているので、ハレの舞台の3日間をなんとか、毎年迎えられ、皆さんに喜んでいただいているけれども仕事じゃないので、自分達がやりたいことをやっていこう、やめたい時にはやめられるよと言うことでしょうか?

横山
10回を超えたときから、これは俺たちだけのイベントじゃないよねとなった意識は共有しています。だから今は、やめたい時にやめるというのは選択の中にはない。やめられないけど、まあいいかって。私も他のスタッフもそう思っています。もともと横須賀倶楽部は月寄り合いも毎月あって、毎月第4日曜日には、三社市というフリーマーケットを神社でやっていて、それが横須賀倶楽部の活動の中心みたいなものでした。最盛期には30店舗位第4日曜日に集まった。今では出店しているのは倶楽部の人だけになりましたが、毎日曜日はお餅をついてみんなで分けて食べる。そういう付き合い方です。これは日常生活に入っています。消防団をやっている時には正直辛いなと思ったこともありましたが、みんなそれを乗り越えてきています。

深野
静岡県内でもいろいろなアートイベントがあります。それは色々な思いを持って、皆さん始めていますけど、地域の方と一緒に作り上げているイベントもあるなかで、今まで聞いた話とはまた違う成り立ちですね。ポイントはなんでしょうか?

横山
いくつかあります。その一つが上代家老の竹内というリーダーがいることです。イベントがある時には、真っ先に準備をして、そのリーダーが芯が通っている。最初の10年は迷走して、いまでも自分から入ってくる人ってほとんどいないです。行政や観光協会で、面白いなと思って付き合ってくれる人はいるけれども、部員で入ってくる物好きというのは、今まで5人ぐらいでそうそう物好きな仲間はいない。

深野
バブルが終わって、まだ残り香があって、まだ楽しいことやろうよみたいな時代ですか。

横山
商業研究会でも最初は、横須賀商店街に、アーケードを作るとか、真面目に言っていて。横浜元町に見学にいっちゃった。

深野
今となっては、この横須賀の街の街並みやファサードがどれだけしっかりしていたのかを再確認する行動でしたね。

横山
結論的にはそう。20世紀に街道に古い家が歯が抜けたように残っている。城下町の街並みなので、まず後継者がいない。間口が長く、奥に長い。隣接していてプライバシーを保つのは難しい。そうなると若い人は、街の外へと新しい家をつくって出ていってしまう。

高橋
仕事はこちらでされていていても、外に家をつくるということですね。


祭りへの思いが街を元気にしていく


横山
もう一つが、私たちの青年部の一番の根っ子の部分、熊野神社の三熊野大祭です。横須賀の三熊野大祭というお祭りを維持するための、街の元気さを作りたいというのが、横須賀倶楽部のスタート地点です。

高橋
このお祭りの講というか、その組織を文化展でもそのまま使っているのですか?

横山
そのままは使っていないです。三社総代会は別にあって。そこはそこで一生懸命やってくれる。これがいわゆる称里(ネリ)というもので各町内13町にあります。280年前くらい江戸の神田の三社祭、14代目のお殿様が、それを持ってきた。東京や他の地域は電線とかで、この手の大きさのものは、動けなくなったので、神輿に変わった。横須賀は変わらずにずっとこの称里(ネリ)で三熊野大祭をやっているうちに、静岡県にシーラカンスみたいな祭りがあるらしいぞと話題になってそれから、うちの祭りが、全国的に有名になった。この祭りに関わった人たちが中心にいなかったら、この活動はそんなに続いていないと思うんですよ。

深野
他の場所と違って、街を元気にするためだけとかではなくて横須賀の人たちは、『ちっちゃな文化展』は、大事な三熊野大祭の存続がベースにあるから協力しようと思っている

横山
なぜ街を元気にするのかといえば、祭りを続けたいから。

高橋
街が元気じゃないと祭りが続けられないというわけですね。

横山
もう20回重ねると、祭りの人出よりも、文化祭の人出が、多かったりするんですが、祭りを見た人が、文化展を知り、文化展を見た人が、祭りを知る。循環して回り始めている。それも文化展を続けていくモチベーションの一つです。今回も緊急事態宣言が出たなかで、「文化展をほんとにやるの?」と議論がありましたが、意地でもやるんだ。これをやることで、祭りもやっぱりやらなきゃいけないねという雰囲気を作りたいという目的がありました。

高橋
そこで地元の先輩後輩とか、学校の先輩後輩などという関係性が大事な要素になってくるのですね。

横山
いずれにせよ少子高齢化があるので、祭りは横須賀地区でおこなわれますが、横須賀だけではなく周辺部全体から祭りの助っ人として、色々な方が来ないと成り立たない。それもあって、人のパワーが集約されるんです。うちの倶楽部の代表と亡くなった二人は、とにかく祭りの伝統派で、伝統や格式を守ることには、非常にこだわる人です。ファッション的に法被を着崩したりすると、それは伝統と違う。弥里って、リヤカータイプで、お酒飲んでひき回して、その上で、踊っている若者を見てね、そんなのは祭りを汚している。しかし50年くらい前の写真を見ると、本人がそれをやっていると、記録写真に残っている。お祭り自体は、毎年4月第1金土日で、ずいぶん昔は1月正月にやっていたので、法被がちょっと厚手です。4月の気候だと暑い。だから若者たちがはだけてしまう。このお祭りは高校生から参加できるお祭りになっています。しかし高校生の参加は一時議論になりました。お酒とか喧嘩とかすぐに熱くなる。観光協会が作っている祭りのパンフレットを編集しているのが、倶楽部の代表です。普通の商売をしていたんですけど、祭りの足袋を作っています。三熊野大祭に使う足袋は、二重底で特殊なものですが、それを日本中で作らなくなってしまったので、自分で足袋を作る足袋職人になってしまった。元々、コンビニもやっていて、商売は上手く軌道には乗っていたのですが、後継者ができたからと言って、辞めて、足袋職人になってしまいました。そういう祭りに対するモチベーションの人と、僕らは一緒にやっているんです。

最近の一緒にやっている熱心なスタッフは、この仲間でワイワイするのが好きだから、本来は作業は8時に終わるんです。でも9時まで帰らない。早く帰りなさいというのですが、そんな感じのお付き合いがあって、今日も文化祭の準備をずっとやっている。この文化祭の準備も稽古場といって、お祭りの準備と同じ感覚です。毎日が文化祭に前夜祭みたいな感じで。先ほどもお話ししましたが、意見が会わずにここの団体にいることのメリットがないと感じて抜けていた人がいる。それは仲違いではなくて、『来る人は拒まず、去る人は追わず』の関係性がこの横須賀地区の三熊野大祭と『ちっちゃな文化展』のよいところであると思います。

深野 高橋
本日はお忙しいところありがとうございました。来週からの『ちっちゃなちっちゃな文化展』頑張ってください。

文責 音楽の架け橋メセナ静岡 高橋晃一郎
高橋からのコメント
今回取材をさせていただいた『ちっちゃな文化展』を主催されている遠州横須賀倶楽部は、創部から30年という静岡県内でも民間主導のまちづくり団体として古い歴史を持っています。そして『ちっちゃな文化展』は江戸時代からの歴史が連綿と続いていく横須賀の街道の歴史の先にあったということに気がつきます。横須賀の皆さんには歴史が紡いできたプライドがあって、そのプライドが危機を迎えた旧ヤオハンの出店計画を乗り越えた先に見えたものが江戸時代から続く、自分たちの街そのものであり、三熊野大祭を変わる事なく続けてきた住民皆さんの繋がりでした。ボランティア調査としては主催者の皆さんたちがアートボランティアであり、その周りを支えている皆さんもまたアートボランティアの当事者だろうと結論付けるのは簡単です。しかしこの地域にしっかりと根を下ろした生活者の皆さんからは私たちはボランティアではないよと言われそうな気がします。地域における人と人との関係性と地域おこしやアートボランティアとの関係性などについては、私たちも調査の過程で『結』などの言葉を使いアジア地域独特の関係性ではないのかという議論をし続けてきました。ボランティアは入るのは敷居が低く、出る時も簡単という希望の言葉は、冊子のモヤモヤ解決にも書かせていただいています。横山さんからお話いただいた『来るものは拒まず、去る者は追わず』は参加するのも辞めるのも自由であるという意味でも使います。最初からの設定としてこの言葉がボランティアやお手伝いをする人々に想定をされているのであれば、参加をしている地元の方々が「ボランティアだよ」と大声を上げることもないのはいうまでもないことでしょう。さらに今回調査に同行して私が勘違いをしていたことがありました。この『ちっちゃな文化展』について雑多な印象を受けていました。アートとクラフトが入り混じった雑多な印象を与えていた自主展の部分について、『ちっちゃな文化展』実行委員会側が、明確に関係を断ち切っている点でした。アートイベント開催において余分なことはしないという合理的な思考は、これからアートイベントの主催者となろうとする側が考えなくてはならないことだと思っています。

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