見出し画像

ワンオペフルタイムワーママが小説を書いたときの話

このnoteは、
「ワンオペなのに小説書いたの!?すごい!」
と言われたくて書いているものではないです。
あらかじめ。


むしろ、疲れた時間の気分転換に文字を書くことが、
とても気持ち良かった。

自分の中身を放出している気分になれました。
最初だけは。


幼少期のわたしは、
いわゆる「陽キャ」に混ざることなく、
5歳児のハツラツとしたモテ女・モテ男が
セーラームーンとタキシード仮面の真似事をしている傍ら、

保育園の教室の隅で
お絵描きに勤しんでいました。

口達者な妹とは真逆の性格で
口下手だったため、
自分の思いは比喩を用いた日記であったり、
俳句や川柳で表現していました。
保育園児が、です。

幼い頃から、自分の世界にドップリ浸かった変わり者だったようです。



そもそもこのnoteアカウント自体が、
「誰にでも分かりやすい文章を書く」ことを目標に作ったもので、

本来の自分を振り返ると
「分かりにくい表現を、色んな想像を膨らませながら察する」のが好きな変態であったため、
自分が文章を書く際も、分かりにくい表現を好んで使っている節がありました。

ただ、それだと世の中の大半には伝わらない。
そう思って作ったのが、このnoteです。
いわば、自分改革のためのツールです。


「分かりにくい表現」と言うと語弊が生じるかもしれません。

映画好きや小説好きの中でも、
余韻を楽しめる作品が好きなひと。

そんなイメージです。

とにかく、
作中の「コップがかいた汗」からでも感情を読み取り、
想像を膨らますことを楽しんでいます。



今日は、ひとりモノレールに乗って外を眺めていました。
雨が降っていたので、窓ガラスに張り付く雨の雫を見ながら、
ひとつぶひとつぶに思いを馳せて愛でていました。

ここに来るまで、どんな荒波を乗り越えてきたのだろう。
生き別れになった家族がいるのではないか。
この子たちはそれぞれ独り立ちして自分の人生を歩んでいるのかな。

そのとき、
目下に広がる景色の中で、
ビル横に転がる白いゴミ袋を見つけました。

雨に打たれながら転がる彼女。
横たわっているにも関わらず、
隣を通る人々は気付く様子もない。
いや、気付いていてあえて気付かないふりをする人もいたことでしょう。

風に吹かれてヒラヒラ動くも、
そんなアピールに助け舟を出す人がいません。

モノレールの中から一瞬見えただけのソレから、
悲しみの感情が心の中にドドッと入ってきました。


と、まあこんな感じで、大人になった今でも私はよく友人から
「喋っていたと思ったら急に考え事を始める」
と言われるのですが、そのときは、大体こういった思考回路をしています。
不意に何かを見つけると自分の世界に入り浸ってしまうのです。

ですので、小説を書き始めたときは、
ものすごく楽しかった。


私は元々、いわゆる「大衆文学」と呼ばれるものをメインで書いていましたが、
何を思ったか去年、初めて「純文学」に挑戦しました。

大衆文学というのは、割とエンタメ要素が強く誰にでも読みやすい表現をしているのに対し、純文学は分かりやすく言えば「感情をそのまま伝えず情景描写で表現する」ので、内容理解は読み手の想像力に大きく左右されるかもしれません。
(大衆文学とはいえ、私の書いていたものは純文寄りです)


結論から言いますと、純文学は「ひとりでいられる時間の長い人」でないと執筆するのが難しいと思いました。
なぜならば、作品に没頭すればするほど、現実世界に戻ってこれなくなるから。


私は家事、育児、仕事をしながらの合間であったり夜中に書き上げましたが、常に作中の登場人物の感情に深く魂を落とし込んでいたので、タイピングしながら泣いたり笑ったり、髪の毛を掻きむしりながらやっており、朝方にはデスクの横の床に自分の髪の毛が大量に落ちていたこともあります。

朝、子どもたちのご飯を用意するときも、心は登場人物のひとりです。鬱的な感情を描いたあとは、キッチンに立つときも腰を曲げ、顔は青ざめていたと思います。感情移入しすぎて、真っ直ぐ立てないのです。

かと言って、現実の自分に戻ってしまうと、作中の感情までまた落とし込むまでのタイムロスが勿体無いと思い、このままの状態をキープしようとしますが、そのせいで子どもたちがいくら陽気に話しかけてきたとしても、ただ口角を上げるだけの笑い顔しかできませんでした。あの時は本当に申し訳なかった。

思い返せば思い返すほど辛くなります。
ただし、その辛さとは裏腹にまた書きたくもなるので、純文学は魔物だなと。

まさに出産と同じ感覚です。
産みの苦しみを味わうのは怖いけど、
終わってしまえばまたあのときの感覚を味わいたくなる。

文學界新人賞に応募するための原稿はギリギリまでかかり、9月末の締切間近の心理状態は躁鬱でした。

あまりにもギリギリだったため、推敲も一度しかできず、その推敲自体も3日ほどしか間をあけることができなかった。
推敲は、人にもよりますが、中には完成した作品を1ヶ月ぐらい読まずに寝かせておくパターンもあります。

純文学は特に、感情移入しやすいので冷却期間が必要です。
一旦は感情に任せて書き上げるも、冷静になって客観的に読み返す時間。



ただし、紙に出力できたのはポジティブなことでした。

私はそのたった一度の推敲を、
紙と赤ペンで行いました。

データを紙にして、紙で読む。
紙で読むとなぜか修正箇所に気付くのです。

私の推敲作業の方法は、

まず、内容は読まずに頻出文字や誤字脱字のチェック。
そのあとさっと目を通し、読みにくい箇所を探す。
文章の入れ替え、修正。
次に音読し、引っかかる部分がないかを確認。
最終的に、よりよい表現がないかを考えながらじっくり読む。


こんなことを書くと『ハンチバック』の著者である市川沙央さんの思い「紙の本への呪詛」に反してしまうのですが、やはり私はデータで読むより紙で見た方が色々と気付きが多かった。

より生々しい生きた感情を描ける気がしました。



物語を書くというのは、私の中で
「自分の中身を表現するもの」でもありますが、
「自分でない誰かになれるもの」の要素が大きいです。

誰かの人生になり、作品の中で一生を終える。
いや、作品が完成しても、余白のページでその後の人生を歩んでいるのです。


今年は時間の都合もあり断念しましたが、
来年は再び新人賞に応募しようと思っています。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?