読む本を間違った (友田とん『百年の孤独を代わりに読む』)

先日の日記で考えていた「賢しらな同僚の代わりに本を読む業務」は可能か?ということについて、

そういえば⋯なんか、そういうタイトルの本があったなと思って購入。誰かの代わりに本を読むということについての、知見を期待した。

なんとまったく参考にならなかった!それなのに、著者が4年かかって書いた内容を、ものすごい勢いで一日読み耽ってしまった。

最近ゲームやSNSを自制していたのは、この事態を予見していたのか?子育ての合間の時間を全部、読書に充ててしまいながら、やや就寝予定を過ぎつつ、これを書いている。

二度と何も知らずに読めない

まず、この本を読むにあたっては、自分が『百年の孤独』を純粋な状態から、今風に言えば「ネタバレなし」で読むことはできなくなるという覚悟が問われる、と思う。

かのホルヘ・ルイス・ボルヘスが、たしか『ドン・キホーテ』をモチーフに「架空の書籍についての書評」を書いたことがあるという話を何かで読んだことがあるが(『伝奇集』らしい)、そういうアクロバットな建て付けではない限り、おそらく『百年の孤独』という小説は実在する。いや、さすがに名前だけは聞いたことあるにしてもですよ。

実在の小説について、直接読むのではなくて、人が語る内容をテキストにしたものから読む。このちょっと後ろめたい道を選んだのは、冒頭にあるように、その「代わりに読む」ということこそが、自分の仕事上の関心であり、仕事を仕事だと思わないでできたらどんなに良いだろうという夢想にとっても、非常に重要な可能性だったからだった。

そんな大義名分?もあり、多少裏道だろうとズンズンと元気よく歩いてみたものの、なんだかすぐに雲行きが怪しくなる。

読みやすい脱線

本書はじっくりと『百年の孤独』を読み進める著者の連想、あるいは同時的な体験を「脱線」と呼び、作品の内容と並走させ、また時に直列で走らせる。マイオールタイムベスト洋画がティム・バートンの『ビッグ・フィッシュ』な自分にとっては、予想内というか、むしろこういうのを(冒頭の業務的な効用とは別に)期待していた。

そして、ここに書かれた脱線は、比較的、律儀な脱線であるとさえ思う。たまたま、これも仕事上の必要があって読み進めている別のテキストが、もう全然こんなどころじゃない、あらゆる種類の脱線を、自覚的に暴力に近い形で展開しまくるという手強い内容で、さすがにちょっと途中で挫折しそうになっていたところだったので、本書を読み始めて、まず感じたのは「あっ、なんて読みやすい脱線⋯」という安らぎだった。

しかし、どんな脱線も、当初想定していた業務上の「代わりに読む」には貢献しない。要約や解釈が一通り共有された後に、「あとはまあ、個人的にですが」と言い添えて、前段よりもさらに圧縮した文字数で述べるに留める内容に該当するだろう。

自分よりちょっと上の世代感がある連想・脱線を楽しみながら、いやーこれは失敗した。この本、代わりに読むことについての知見は無いな。それどころか、多分「代わりに読むことは不可能」という結論が待っているに違いない。と、早々に何かの効用めいたものを諦めた。

私がいま、この本を読んでいる

そもそも業務として想定していた「代わりに読む」においては、ジャンルとして小説を想定していなかったので、この本を買って読みます。ということ自体が、一つの職場内で完結したギャグ・冗談ではあったので、全然買って読んで後悔とかは無くて、

しかし著者が真剣に「代わりに読む」ということについて悩み、他人の言葉を真に受けて、何事かを試し、失敗し、それでも代わりに読み続ける。代わりに読み続けてるのか?いや、代わりに読み続けているんだ⋯と歩みを止めない様子には、こちらの半端な態度が申し訳なくなるような気迫があった。

いやいや!あの、いいんですよ!厳密に代わりになってるかどうかなんて!俺、この本をね、これをいま読んでるんです。あなたの本を読んでいるんで、それだけでなんか十分で、それでよくないですか!?

などとコース脇から叫びたくなるような気持ちになりつつ、走者のゴールを見届けた。

読む以外の何かの代わりまで

著者は当初noteの記事だったものを元に自費出版し、それを携えて全国を行商していて、今回自分が購入した文庫は、同内容が既存の出版社から改めて刊行されたものだったという。

それはもはや⋯、「代わりに読む」以上のことを「誰かの代わり」にやっているような気がする。これは、自分の関心が「代わりに何かをする」ということにあって、それが必ずしも何かを読むことには限定されないということでもあるのだろう。実際、自分の本業の内容もほとんどが、「代わりに何かをする」だ。

*

代わりにできることと、代わりにできないことがあって、できないことを、それでも代わりにやってみせる。で、それはできないことなので、やっぱりできない。

しかし、代わりにできないことを、代わりにやってみることは、誰の代わりでもなく、その人自身の行いに他ならない。そうである以上、無謀な「代わり」は同時に、なにかこう、簡単に触れてはいけない恐ろしいことに対して開かれてさえいる。

その不穏と、その不穏が支えているものを垣間見ることが、本書によってできた読者がいるならば、その人は、もう誰の代わりでもないかわりに、誰かに代わってもらうことができないことによってこそ、誰かの代わりを果たしていることになるのかもしれない。

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