「ハッピークラシー」読書感想文
人から勧められた本は、タイトルで判断して即購入する場合が多い
個人的に大当たりだったのだが、もったいぶっているうちに年度末に忙殺されてしまっていた。
どういう本?
マーティン・セリグマンが提唱したポジティブ心理学がアメリカを席巻したのは、その思想がビジネス界や軍事にとって、非常に都合のよいものだったためである。
というのも、ポジティブ心理学には、「ポジティブであれと要請するだけで、社会や組織の構造上の問題を、メンバー個人の課題として押し付けることを正当化できる」という、組織運営上の強烈なメリットがあったからだ。
潤沢な支援や予算をもとに、研究も論文もイケイケドンドン(死語)で盛り上がったが、それ以降の研究内容は結論ありきで、科学の俎上にあげるには、あまりにもお粗末であった。
しかし、どれだけ杜撰なものであってもいいから、研究や論文で権威付けしたいという支援団体側の思惑によって、
さらに、とにかくポジティブであろう!とする、ポジティブ心理学そのものの性質によって、
いまや誰の目にも明らかに邪悪だとわかる段階までエスカレートしていったハッピークラシー(クラシーは「テクノクラシー = 官僚制」からきている)産業を、考察・批判する本である。
ということで、いつも通り好き勝手に感想文を書いていきます。
実はポジティブ心理学けっこう好き
この本では悪の親玉っぽく描写されているマーティン・セリグマンだけど、実は個人的には、著作にとても助けられた経験があって、
当時はアンリミで無料だったこの本を、あまり期待しないで読んだ結果、目からウロコが落ちた。
その内容はポジティブであることの素晴らしさというよりも、まず、ネガティブであることの及ぼす悪影響についてのものだった。
特に塞ぎ込んだ時の一般化(なにをやってもダメだ)と普遍化(俺はもう一生ダメだ)には心当たりがありまくり、膝を打った記憶がある。
それにセリグマンのお父さんが、一度の挫折で人生全体を悲観するようになって、そのまま転落していく様子が書かれている部分は本当にかわいそうだった。
さらに言えば、ポジティブ心理学自体は、セリグマンの本を読む前から知っていて、「フロー」の提唱で知られているミハイ・チクセントミハイ博士のTED Talkがきっかけだった。
これも面白い議論で、フロー体験と呼べるような過集中・乖離状態もまた、身に覚えがありすぎる。
ということで、ハッピークラシーを読む前はポジティブ心理学に肯定的な立場だったし、ある意味では、それは批判を読んだ後でも変わらない。
ハイになりすぎセリグマン
ハッピークラシーを読んで思ったのは、セリグマンが自分の理論をポジティブに発展させ過ぎて、それに歯止めをかけることができなくなったことが問題だったのではないかということである。
それもそのはず、「多少の粗には目をつぶってでも、とにかくポジティブであることが、全ての問題を無限に解決する!」というポジティブの暴走、ポジティブ・ハイを自覚的に抑制することは、「ポジティブであれ」という原則に反するからだ。
ある時期からのセリグマンは、もう完全に裏付けや根拠というものを度外視した、文字通りの「天啓」によって自身の理論を発展させていく。
↑ ちょっと落ち着いてほしい
ポジティブとは原則フェイクである
こうした暴走はセリグマンの性質というよりも、そもそもポジティブであること・前向きであることが、原理的にフェイク・嘘だということに起因しているのではないか?
救いのない惨状の真っ只中で、運命を書き換えるだけの行動を起こすために必要なのは、冷徹な現実の直視ではなく、無根拠な楽観視であることも相当に多い。
初期のセリグマンが言っていたのは、悲惨な状況に適応するためにではなく、悲惨な状況に反発するためにフェイクを使えということであり、それがすなわちポジティブさだったのではなかろうか。
しかし、そのフェイクの毒と恍惚に酔いしれてしまえば、全てがポジティブで解決する!ちょっとばかり都合の悪い現実は無視してしまえ!それがポジティブ心理学の教えなのだから…と簡単にタガが外れてしまうことは、想像に難くない。
邪悪さはどこに宿るか?
ただ、これだけならセリグマンもただのポジティブ教信者である。非常にマズいのは、こうしたセリグマンの態度を、自覚無自覚問わずに悪用しようとする人たちがいるということだ。
先述の通り、社会や組織の課題を個人に押し付けることの正当化というのも大いに問題なのだけれど、もっと悪いことは、個人のものの感じ方や、表現の仕方を、数値化・画一化することの正当化である。テクノクラシー(官僚制)をもじってハッピークラシーと称される理由がこれだ。
会社の中で、あるいは大人気のアプリの中で、個人がどのような性質をもっているのか?それは1〜5の数値で表すならどれくらい幸福に近いか?などというルールを、何の疑いもなく当然に提示することが、暗黙のうちに画一的な基準を押し付けていることでもある。
そうした感じにくい暴力に人々を慣れさせることが、社会と個人にいったいどのような結果をもたらしているのか?ハッピークラシーはそこまで批判を展開しており、個人的にも、実は邪悪なるものが作用する領域は、そこなのではないか、と直観できる。
そもそも名付けがフェイクである
ここから先はハッピークラシーに書かれていたことではないが、
まず私達の感情や体験、実存や在り方というものを、このようにして何らかの形で「名付ける」「呼ぶ」こと自体が、いつも本質から少しだけ剥がれている。つまりフェイクを含んでいる。というところまで遡る必要がある。
言葉もまた自己増殖的な性質をもち、すぐに「言葉にしてはいけないもの」を言葉にしようとする。
なぜ言葉にしてはいけないものがあるかというと、言葉は共通のものを伝え合うためにあり、逆説的に、言葉にされたものは、当然に「共有して伝えられることが可能なもの」にまで貶められるからだ。言葉にできない・しづらい部分がバッサリと切り捨てられて、無いものとされる。
こうした言語化は、人類最大の発明と言ってよいくらい便利で素晴らしいものであるが、ポジティブさと同様、便利なものは大抵、エスカレートすることがほぼ運命付けられている。
人間はほどほどができる(はず)
とはいえ自分も、友達がストレングスファインダーを使って仕事をしていたり、仲間内でもコンピテンシー診断を使って「全員『コミュニケーション』が低いじゃねえか!」などと笑っているので、数値化や言語化そのものを全否定するわけではない。
ただ、ポジティブさについても、言語化・標準化についても、あるいは理論の発展やその産業利用についても、建前に反するような暴力や権力を正当化するほどにエスカレートするならば、それらを制御できるのでなければならない。
あるいは、資本主義の相対化という課題のように、結局は長期的にも「ほどほどが一番よい(利益がある)」ということを、一個人の実践の中で提示していくしかないのかなあと思う。