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おじさん小論文02 「継続について」

 前回の「基礎について」にも通じるものとして「継続」がある。

 あらゆる基礎トレーニングや習慣は、それが繰り返されることを前提にしている。

 その繰り返しを「継続」と呼び、どのように実現させていくか?ということに、ずっと関心がある(関心がある状態が「継続」されている)

 最近は特に色々とやってみているが、それでも全ての習慣やトレーニングが、望ましい形で継続されてはいないのが現状である。

 その理由の一つとして、どうやら認知を司る脳と、身体・神経を司る脳の見解の相違(?)があるようだ。

 考えてみれば、全ての「作業」や「タスク」を区別するものは、物理的に存在しない。仮に睡眠行為を一つの区切りとしても、起きている間は、腕を動かし、席を立ち、ものを見やる、などの身体的行動が絶え間なく続いている。

 それを「歯磨き」「記事を読む」「デスクバイクを漕ぐ」などと名付けて区別しているものは、いわば認知上の幻にすぎない。

 心拍や代謝という反復が「継続」されていることが、私たちの生活と人生の前提である。ならば作業やタスクにおいても、物理的なレベルでの「継続」が紐付いている必要があるだろう。

 しかし、認知上の習慣を、身体に結びつけようとすると、そこには何らかの「関門」が立ちふさがる。

 それもそのはずで、認知上で習慣にしたいことを全て習慣にできてしまうと、ふさわしくない習慣や悪癖までも際限なく取り入れてしまうし、「何をもって取り入れるか」のボーダーラインが存在しなければ、思い浮かべただけで、それらをやめられなくなってしまいかねない(おそらく強迫症にまつわる問題が生じる)

「関門」は例えば、早起きの4日目に現れる。苦痛と苛立ちが自らを襲い「今、予定通り起きるべきか」「明日も予定通り起きるべきか」について自問自答を繰り返させる。

 その苦痛に耐えられないのであれば、それは習慣にするべきではない。飲み会があったり、家族の生活リズムが遅かったりして、8時間以上の睡眠が確保できない場合も、早起きも習慣にするべきではない。

 しかし、環境や体調が整っている上で、その苦しみを「是」とできるのであれば、身体はその判断を優先してくれる。「関門」を突破すれば身体・神経側の情報が書き換わり、翌日からは、むしろ身体の方が率先して目を覚ます。

 とはいえ、書き換え可能ということは、また逆向きにも書き換えできるということだ。何かのアクシデントや単発の用事で、生活リズムが狂ってしまえば、苦しむよりは楽な方に、すぐ戻ってしまう。

「戻ってしまう」と書いたが、これは決して悪いことではない。身体は生命の「継続」を、認知上の何かよりも優先するのが正常な働きだからだ。

 おそらく心身が病むと、この「継続」と「関門」のシステムがバグる。命を危険に晒して労働や活動を「継続」したり、強いダメージによって「関門」が強靭になり、あらゆる習慣を削ぎ落とす場合もあるだろう。

 ということで、「継続」は認知上望ましい習慣化に対して、身体が許可を出している状態であり、それぞれのトレーニングや活動には、一定以上の体調の良さと、個別の状況が必要になる(と、私は認知している)

 自分が獲得したい「継続」が、単に状況が整備されていないことによって実現しないのか、あるいは体調に対する負担の総量が大きくなりすぎる懸念から実現しないのかを、実践を通して見極められるようになれば、おそらく次のステップにいけるのではないだろうか。

 だとすれば、この「継続」の難しさについて、解像度を上げていくことこそを、自らの習慣の一つとして「継続」していきたい。

 


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