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大島について(一)
棟方志功の『板極道』
午後、棟方志功の『板極道』(中公文庫、一九七六年)に沈溺する。そのなかに「大島と沖縄への旅」という小品があり、とくに大島について叙述した部分に興味を惹かれた。一九三三(昭和八)年ころ、深川の霊岩島から小さな汽船に乗り、夜航して朝の四時ころ元村の沖合に達したという。当時、いまの東海汽船はまだ東京湾汽船という名前で、湾内や伊豆諸島への航路以外に北海道に通う便もあった。この年、あやめ丸とかさつき丸(初代)、常盤丸などが新船として航路に登場している。さつき丸の二代目には、子供のころに乗って、熱海や伊東との間を往復したことがある。この二年後の一九三五年にはすみれ丸(百六十トン)も就航し、この船はやはり子供のころ、大島の波浮港を母港とし、島の西岸海域を北上して元村に到り、そこから利島、新島、式根島、神津島などを結んだ。小さい船だったので外洋に出るとよく揺れ、わたしはすぐに酔い、船室で吐いた。ざこ寝の部屋にはアルマイトの洗面器やビニール袋が用意されていて、気分が悪くなった乗船客はそこにもどしたのである。
NHKが監修したカセット資料『昭和の記録 激動の55年 録音集』全十巻(ぎょうせい、一九八〇年)の第二巻「奪われゆく自由」(昭和六〜十一年)を丹念に聴いてゆくと、一九三二年に大磯で慶大生と静岡県駿東郡富岡村の女性が周囲から結婚に反対され服毒自殺した坂田山心中事件が起き、その後、心中のメッカは大島三原山に移って、翌年までに四十三人が噴火口に投身して叶わぬ純愛を貫いている。この異常な事態に直面した地元大島の観光業界は大いに頭を悩ませ、汽船会社は片道乗船券の販売を中止にして心中防止に対応した。
大島への旅行をつづった藤森成吉『波』(自費出版、一九一四年)は、宮本常一『旅の手帳 <愛しき島々>』全4巻(八坂書房、2011年)に収録されていた「伊豆大島」を読んでいて偶然に見つけた。これはのちに『若き日の悩み』と改題されている。第一高等学校を卒業して大学に通う藤森成吉がもやもやとした青春特有の悩みを抱いて大島にあそび、その風土に魅了されて書き上げたいわば自伝的な小説である。描かれた伊豆大島のあれこれは、いまではなかば失われてしまった得難い歴史の証言である。東京と大島を結ぶ汽船や、その船に乗るための艀船(はしけ)、乗船客の肖像、桟橋、上陸風景、そして島に展開する海山の大自然、島民の描写や風俗、風景などは、この島に生まれ育ったわたしの琴線にびんびん交響してくる。昭和初期の時代的な雰囲気のなかでつくられた作品なので、いまではもうほとんど使われなくなってしまった日本語の正しい作法が躍動し、読んでいて思わず膝を打ちたくなるような認同感を得ることができる。わたしたちの言葉は、かつてこんなにも美しい表現や描写にあふれていたのだ。
小さな小説に隠れるように描かれている島の風土は、簡単なようでいて、じつは発掘するのがなかなか難しい。偶然性が介在しているからだ。この小説に出会わなければ、太陽系をまわる惑星とおなじように、その軌道上にあるかぎり遠く遥かにすれ違うことはあっても、永遠にぶつかることはなかった。その意味で、『若き日の悩み』との邂逅は、奇跡的ですらあった。資料から資料へ、文献から文献への連鎖というバトンが繋がれると、突然、本来の資料価値とはまったく異なる新しい世界が開けてくることがある。それは興味のない者にとっては紙ゴミの堆積にしかみえない史資料群がもたらすきわめて刺激的な知的宝庫である。『若き日の悩み』は、戦後の一九五一年に角川文庫として復刊されている。一九六九年までに四十版を重ねているので、ずいぶん読まれた小説だったのだろう。舞台となった大島の観光振興にも寄与したにちがいない。
先週、神戸に棲む学部時代の同級生から、『日本経済新聞』日曜版の切り抜きが送られてきた。それは大正・昭和初期にかけて伊豆大島を訪れた画家の足跡を取材した記事(上編)で、見開き二頁にわたる大掛かりなものだった。紙面には幾幅かの絵画が印刷され、なかでも東京美術学校に在学中の和田三造が初の文展で最高賞を受賞した『南風』に惹きつけられた。和田が乗った八丈島通いの郵便船が伊豆諸島海域を襲った暴風雨で難破し、三日間の漂流をへて大島に流れ着く直前の船上からの海景を絵にしたものである。当時、休養を兼ねて伊豆諸島へ向かう画家や作家は多く、この現象について和歌山県立近代美術館学芸員の宮本久宣氏は大島での作品調査を踏まえ、「本土では見られない独特の風俗、文化があったことが大きい」と指摘し、さらに「フランスの画家ゴーギャンが南太平洋の島、タヒチに行って新境地を開いた。明治末から大正期の日本の画家たちにはゴーギャンという画家像への憧れがあり、そのドラマを追体験できる場として大島に惹かれたのではないか」と語っている。
(写真:日本経済新聞 二〇二一年二月十四日付日曜版より)
野口雨情が詩を書き、それを中山晋平の曲にのせた『波浮の港』が大ヒットしたのは、一九二三年のことだった。爾来、この歌曲は時代に継がれ、大島生まれ、大島育ちのわたしは、小学校の音楽コンクールや学芸会などでなんども歌った記憶がある。無声映画『島の娘』(松竹作品。野村芳亭監督、竹内良一、坪内美子主演)も一九三三年の封切りである。この映画の冒頭に映っているすみれ丸や大島西南岸の島影が懐かしい。多くの画家が大島を描き、作家がそこを舞台にして小説やエッセーを書き、映画も撮られ、大島観光は戦前から盛り上がっていった。
『板極道』の筆者である棟方志功もそうした雰囲気のなかで大島を訪れ、現地の風光に感動し、以後の作風に影響を受けている。島の逗留先だった波浮港に到着した棟方は、「散歩どころでなく、竜舌蘭につきっきり、コバルト・グリーンをしぼり、イエロー、バーミリオン、プルシャン・ブルー、ホワイトなど好きな色ばかりを、チューブからそのままパレットに出す、また、そのまま画布に移した」、あるいは「このときから、わたくしは原色で、他の色を混ぜない色を使うようになった」とその興奮ぶりを活字にしている。
谷崎潤一郎が『板極道』に序を寄せ、草野心平が解説を書いている。なんと豪華な顔ぶれであることか。谷崎はその作品『瘋癲老人日記』に棟方から版画の挿絵をもらっていることなどを書き、『板極道』は「バンゴクドウ」の意であることを作者から告げられたことなどを明かしている。草野は棟方を追悼する形で、ともに旅したインドの想い出などをつづっている。詩人とは、このようにさりげなく、そして真心のこもった文章をかけるものなのかと嫉妬さえ覚えるほど、草野の解説がじつによい。