【書評】高橋ユキ『つけびの村 噂が5人を殺したのか?』(晶文社、二〇一九)の倫理的問題――「村」へのまなざし
晶文社が京都大学学術出版会とともに第一七回出版梓会新聞社学芸文化賞を受けたという。
上掲サイトによると受賞理由の一つには同社刊のルポタージュである高橋ユキ『つけびの村 噂が5人を殺したのか?』の評価があるということらしい。しかし稿者は同書の刊行以来、その内容や表現には多くの問題点があると考えてきた。すでに刊行からいささかの時間が過ぎているが、いまこの機会に、考えを整理しておきたい。
(1)『つけびの村』梗概
二〇一三年七月二一日、山口県周南市須金・金峰地区の、わずか十二人が暮らす郷集落ではその夜、二軒で火災が発生し、三人が死亡。現場検証が始まるのを待って集落の者が就寝すると、夜明けにはさらに二名が殺害された。この山口県周南市連続殺人放火事件は、すぐに逮捕された集落の住人、保見光成の家の窓ガラスに貼られていた「つけびして煙り喜ぶ田舎者」という張り紙とともに大きく報道された。犯人が事件前、「草刈機を燃やされる」「家の裏に除草剤を撒かれる」「犬が臭いと文句を言われる」と主張し、仲のいい集落で孤立していたとする報道もあった。当初容疑を認めていた犯人は、初公判で無罪主張に転じた。
高橋ユキ『つけびの村 噂が5人を殺したのか?』(晶文社、二〇一九)は、某誌から依頼された同地の夜這いの風習についての取材を契機としてこの事件に関心を持つようになった著者の、事件にまつわるルポタージュである。noteで散発的に公開されたのち、増補分を加えて単行本化された。
本書の大部分は著者が金峰地区での取材で知り合った住人たちの発言の紹介、およびそれを聞くにいたった経緯の描写である。例えば執筆の契機となった夜這いの風習についての取材の経過が、いかなる形で語られているかを見れば、本書の〈芸風〉は明らかであろう。ことの発端は、事件の犯人である保見へのインタビューなどをもとにして執筆された、ある雑誌に見いだせるゴシップであった。それは「犯人の兄は、大戦中、徴兵忌避の男の夜這いから母を守った。その男の長男が、関東に出て働いたあとUターンで集落に戻った犯人に、「おめえの兄貴にはイジメられたぞ」と言い、以後、犯人は集落で無視され、農機具を燃やされ、刃物で切るつけられるまでになった。この男は殺害されなかったが、集落ではこの男こそ犯行の本命だったと噂されている」というものである。
著者が行ったのは、この裏付け調査であった。集落に出向いた筆者は、被害者遺族の男・河村と出会い、この男が〈本命〉であることに気づく。しかし河村は、父の夜這いなど聞いたことがないとし、記事を否定。また、記事に載っていた〈つけびして〉の川柳は、この事件を詠んだのではなく、数年前にあったという河村邸放火事件の折のものだといい、かつその犯人は、保見ではなく、別の「悪いやつ」であったと述べる。この日の取材で筆者は、この集落では、河村邸放火事件のほかにも不審火が数件あったことをほのめかす。
住民たちが語る言葉の端々には、この種の不穏なものが混じる。著者が聞き取りを進めるうち、どうやら事件の周辺には別の無数の事件があり、それにまつわる噂があるらしいことが浮上してくる。
一九四九年にこの集落で生まれた保見は、〈金の卵〉の時代、二〇代で東京に転職して以来、しばらく関東で職を転々としていたが、一九九六年に父・友一の体調不良をきっかけとして帰郷。独力で一軒家を建て、「シルバーハウスHOMI」という、カラオケ機器やカウンターバーを備えた寄り合いの施設とし、またリフォーム業を開業した。しかしこの〈村おこし〉に住人達はついてこず、協力者だった同年代の住職も計画から離脱、次第に保見は孤立し、精神を病み、住人たちからは危険人物とみなされていった。筆者は集落に通ううち、保見が主張する「農薬による飼い犬への攻撃」「集落のために買った草刈機を燃やされる」といったトラブルが、住人達の知らぬものであり、保見の妄想であった可能性に気づく。
一方、住人たちがしばしば語ったのは、保見の父・友一は泥棒だった、という話であった。酒や雑貨を住人に売りつけたり、数年がかりの植林の仕事を請け負ったりはしていたが、田畑を持たなかった友一は、集落の農産物や洗濯物を盗んでいたというのだ。つまり保見がUターンしてすぐ孤立したのは、泥棒の息子とみなされていたからだった。
隣の集落で話を聞くと、また異なった事情が判明する。郷集落には商店がなく、保見の向かいの家に住んでいた吉本という女性が取りまとめて生協の商品を共同購入していた。商品を貰いに住人たちは金曜日の朝になると吉本宅にあつまるのだが、住人の内三人は、そのままいつも吉本宅に残って茶話をしていた。この〈コープの寄り合い〉は、集落内の噂を共有し、よくない噂についてはその当事者のところへいって注意をしていた。保見も、犬の糞の処理を注意されたことがあった。住人たちは〈コープの寄り合い〉の振舞をおそれ、槍玉に上がれば居づらくなると感じていた。〈コープの寄り合い〉を構成していた三人は、事件被害者となった。
筆者は、この集落の本質を「噂」に見る。保見だけではない。被害者遺族でありかつて放火事件に遇した河村のことは「役場勤めの頃から嫌なやつじゃった」「火も自分でつけたんじゃろう」といい、別の住人である、とある男のことは「あいつも泥棒じゃった」「変わっとる、話さんほうがええ」といい、吉本のことは「原発に反対しちょるくせに、電気をたくさんつけとる」という。隣の集落で、この郷集落は、昔から犯罪が多く、世代交代のたびにいろいろと起こる、とか、一つのことにいろんな意見が出て、まとまらずにご破算になる、などと白眼視されているという。
しかし、隣の集落の古老が語った次の言葉をきっかけに、本書の雲行きは怪しくなってゆく。
「全員に関係する大きな問題がある。それは簡単に話せんよ。報道もせんし、そりゃ分からんじゃろう。わしは最近になって、はあ、それで殺されたんかちゅうのがわかった。すべての問題がそこから起こっちょるんよ。子孫が生きてるからなあ、十年経ったら話すと決めとる」
そして集落通いを続ける筆者はある日、河村から、早朝に呼び鈴を鳴らされたり、留守中に家のものが外に投げられたり、玄関の外に押しピンで「この家に立ち寄るな」と書かれた紙が貼られてたりするようになった、と告げられるのである。
(2)同書の問題点①――「村」へのまなざし
書き下ろしにあたる結末部では、先に引用した言葉を発した老人が「真相」を語り、それを受けて著者はあるものを見にゆく。それは本書の核心部であるからここでは紹介しないが、読者は本書を読んで、いったい何を感じるだろうか。さながら横溝正史か三津田信三の小説でも読んでいるかのような印象を感じてはいまいか。稿者は、この事件についての詳報に接したいという当初の関心をよそに、最終的にそのような感想を抱くこととなった。
こうした印象は、筆者高橋自身がそうした悪趣味な視線を持たざるを得なかったことによって醸されている。本書には、無数の噂について検証されていないこと、噂がほのめかす過去の、そして現在進行形の事件についてついぞ言及しないことなどさまざまな問題点があるが、もっとも根本的な問題は、著者がこの集落の問題点とみなす〈噂〉の原動力となる好奇心を、著者自身が、別の形で持ってしまっていることではないだろうか。それは表題に端的に表れている。「つけびの村」と。
はじめに記したとおり、当該の事件が発生したのは山口県周南市須金・金峰地区の郷という集落である。にも関わらず筆者は、この集落を「村」と呼称し、本文中では住民たちを「村人」と呼称するのである。ねんのためいっておくと、この地区の前歴は行政区でいうと町であり、村だったのは一九五五年までのことである。あるいは住民たちが「村」と呼ぶこともあるのかもしれない。しかし、外部から訪問した著者が、「村」「村人」と呼ぶとき、そこには「つけびして煙り喜ぶ田舎者」の「田舎」とも遠からぬ意識があったのではないだろうか。彼らを「村人」と呼ぶ必然性について、著者高橋はいかなる理解を持っているのだろうか。
高橋が「村人」を「描写」するときの筆致にもすさまじいものがある。
「夏はね、亡くなった山本さんやら貞森さんやら、石村さんやらとね、ホタルでも出たらね、夕方に『ホタル見よう』ゆうてから、仕事から帰ってね、おかずの一品でも作って、皆で集まってビール飲みよったけど。みーんな、その仲間は、殺されてしもうたね。あはははは……」と、なぜか高らかに笑うのだ。その口元は、どうやって食事をしているのだろうかと思うほど、歯が残っていない。
いったい、この村はなんなのだ。
祭りに使った道具だろうか、彼は榊を2本の木の棒で挟んで、それを結わえたものを何本も腕に抱えながら話していたが、添えている左手には鎌が握られている。話ながら、その鎌の先端でポリポリと額を搔きはじめた。刺さりはしないかと驚いたのだが、その鎌を持つ左手に小指がなかったことにはもっと驚いた。
よそ者を威嚇しているのだろうか? だが、ここで襲われでもしたら、私が未解決事件の被害者になってしまう。
それぞれ別の住民からの聞き取りの場面であるが、よしんば殺人で知人らが亡くなったことを笑ったり、来客を前に鎌を握ったりすることに異様な趣を感じ、それを書き留めることに意味があったとしても、彼らの歯や指が欠損していることは、いったい、ここにおいて何の関係があるだろうか。
(3)同書の問題点②――「古老の巻」の手法
正直に言って、この著者がルポタージュの執筆に際して求められるであろう倫理を有しているとは、とても思えないのである。それは書籍化にあたって書き下ろされたと思しい「古老の巻」と題する章に関してもいえる。この章は「村」に生まれ育ったらしい「わし」がかつての村の生活誌や自然誌を語るという体裁で、一人称視点が取られている。本文を読む限り、特に何の説明も出てこないので、聞き取りで知り合った住人の一人の談話を再構成したものかと見えるのだが、そうではない。
あとがきで明かされることだが、この章は「金峰地区で生活する複数人の古老の話を統合し、実際には存在しないひとりの人物の回想としてまとめたことも付記する。性別も年齢も異なる方々の話であるため、インタビューに応じてくれたうちの、ひとりの男性の口調に揃えたが、各人が語った回想の具体的なディティールには手を加えていない。改編したのは、各人の年齢と口癖、家族構成といった人物特定に直接つながる情報のみである」という。
さすがに、そんなバカなことがあるか、と思った。いくたりもの肉声を一絡げにして編輯した文章のどこがルポタージュだろうか(いうまでもないが、ルポタージュというのは稿者が勝手に呼んでいるのではなく、本書の帯にも明記され、著者が発信したnoteの原題にも冠されているものである)。個々人のかけがえのない記憶や、それを語る肉声をないがしろにし、各人によって微妙に異なるであろう生活史のディティールに注意を払わずして成立した「回想」に、社会科学的なファクトは見いだせるであろうか。
この章のはたらきも疑問である。ここにおいて「古老」の回想談は、のちに凄惨な事件が発生した「村」にかつて存在した、おだやかでなつかしむべき原風景を、読者に印象づけるための機能を持たされているのではないだろうか。そこには、大時代なオリエンタリズムの匂いもするのである。
さいわいにして本書のアマゾンレビューにも稿者とほぼ同様の感想を投稿するレビュアーが散見されるし、手放しでこの本を褒めている人ばかりではないらしいが、執筆・出版に際して協力者となったという藤野眞功氏や、発売した晶文社、そして評価を与えた社団法人出版梓会の見識は疑わしいものである。
保見は死刑が確定した。精神疾患の有無は裁判では問題とされなかった。しかし彼の確実に妄想症状は進み、本人は自身の無実を信じている。この点に注目し、「これからの投薬治療で正気を取り戻してもらい、自分の犯した罪を真正面から受け止め、死刑執行のその日まで、煩悶し続けてほしいと思うのだ」と擱筆する著者に、この事件への真摯さが皆無であるとは思われない。だからこそ、なぜこのような書きぶりになってしまったのか、と感じるのだ。その責任は重いだろう。