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書を持って海へ出よ

映像化時代の今に、テキストだけが持つ意味ってなんだろう

文字が読めるようになったのは幼稚園に上がる直前くらいだったはず。名前ぐらいは読めた方が良いだろうという親の配慮で、入園前にひらがなカタカナを覚えさせられた。そして、気が付いたときには本を読んでた。本がないときは、食品表示表やスーパーのちらし、日めくりカレンダーの「今日のひとこと」などを読んで飢えをしのいでた。昭和的に言うと「活字中毒者」ですね。進学しようが就職しようが結婚しようが、本だけは読んでいた。それも、いわゆるベストセラーには興味がなくて、そのときどきに自分の興味があるものだけを読んでた。

本はコンパクトで場所を取らないし、ページを開けばすぐその世界観に没頭できる点が良い。スマホ隆盛な今時分に多感な時期を過ごしていたら、本とはもっと距離があいていたと思う。たしかに文字を拾ってイメージを追う読書は、時間もかかるしスキルもいる。だから産後、読書はできなくなった。単に時間がないと言うわけでなく、字面に脳がついていけなくなった。私は、本を手放した。子どもの世話をしたり家事をしたり、社会生活のためにママ友と連絡をとったりする方がずっと大切だったから。

で、いろいろあって、巡り巡ってまた、本を読んでいる。

今、読めることに感謝している。こんな時間が持てるようになって嬉しい。本当ありがとうございます。本よ、そこで待っててくれてありがとう。

わたしの子ども達が小さな頃、人気の絵本やキャラクターには、ほぼ映像化作品があった。アニメだったりフラッシュ系のシンプルな映像作品だったり。お気に入りの絵本を読んだあと、youtubeを検索すると、ページの中では動かなかったキャラクター達がヒョコヒョコ動きまわり喋っている。子ども達にはそちらの方が自然なのだ。しかし昭和のわたしには違和感を感じた。へんな動き。動く方が上等なんて、細密化した映像が良いなんて、誰が決めたのだ。余計なことしてくれるなあ。情報が多くなるほどに、色々余計なものが目につくのに。こども達が大きくなった今、さらに状況は進み、本というメディアは瀕死同然にも見える。漫画や映画の原作扱い、という位置にもいらつく。

本は自由なのだ

テキストの中に閉じ込められた文体を追うと、別の世界が立ち上がってくる。

その中では、自由だ。自分の想像力さえも制限を受けない。読書は自由なのだと感じる。

本は、海。広くて限りのない空、遠くの星。溢れるひかり。

そんなことを思ったのは、ル・グウィンの西のはての年代記を読み返したからだった。皆さん、どうか読んでください。読書は素敵です。






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