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このご時世になんてことを、と

 二十五年勤めた役所を辞めたのは、平成二十二年の春でした。

 たぶんもともとあの仕事は自分には合ってなかったんです。いや、そういう言い方は不遜ですね。ぼくが合ってなかったんです。

 就職してしばらく、昭和の終わり頃まで職場の雰囲気は結構緩くていい感じでした。ちょうどバブルに向かって盛り上がっていた時代。がんがん働いてガポガポ稼ぎたい人達は皆さん頑張っていて、ぼくらはそこそこしか稼がない代わりにのんびり人生を楽しんでいて、なんとなく世の中いい感じだったんじゃないかと思います。

 しかしその後不景気になってくると、それまで眼中にも置かれていなかった我々に対して世間の目が厳しくなってきます。あいつら楽して高い給料もらいやがって、というやつですね。もし本当に高い給料をもらってたのだったらまあ仕方ないですけど、そうでもないのに妬み嫉みの視線を浴びて目立たないようにひっそりと生きるというのはどうも気色が悪いです。

 職場の雰囲気はなんていうか閉塞感みたいなのが重くのしかかってました。それまで平穏な流れの中に居た我々のボートはだんだん急流に翻弄されるようになって、目の前にはやばそうな滝が現れました。滝に落ちるのが避けられないとしたら、できたらなるべく痛く無さそうな場所に落ちたいじゃないですか。それでボートから飛び降りることにしたのですね。

 このご時世になんてことを、と回りに呆れられました。民間は厳しいぞ、食ってけないぞ、ライターになる?そんなんで稼げるわけないぞ。同僚や上司から色々ありがたいアドバイスをいただきましたが、でも彼らとてそうそう身をもって民間を知ってるわけでもありません。まあ何とかなるやろ、山より大きな猪は出ないというし、夜道に日は暮れないともいうし。

 それで、四十歳を過ぎてぼくはライターになったのです。

 山より大きな猪は実はたくさん居ました。夜道にも重ねてどんどん日が暮れました。なかなか仕事がなくて、四百五十連休ほどしました。生涯賃金で考えると、やはり大失敗でした。やけくそになって「無職」という肩書きの名刺も作りました。でもその間、定年退職した先輩のヨットにフィジーからニューカレドニアまで乗せてもらったり、ハワイのヨットハーバーで一週間ほど船上生活をしたり、結構楽しい無職生活を送っていました。できればこのまま持続可能な無職生活に移行したいものだなあ、なんて思いました。

 でもやっぱり「持続可能な無職」は夢の永久機関みたいなもので、永遠の憧れではありましたが経済的に持続不可能でした。それでちょっと考えて、軌道修正して、「プロの貧乏人」になることにしました。「貧乏で飯を食ってやる」という画期的なコンセプトですが、ただ具体的な方法は未だ思案中です。

 ということで、いまはライターとしてなんとか健康でも文化的でもないけど最低限度ちょい上の生活を愉しんでいます。

#あの失敗があったから

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