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天皇の目にも留まる、華々しき書道人生。明治の三筆!【その2:中林梧竹】

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明治時代に現代の書道の礎を気付いた、言わば現代書道の父たち「明治の三筆」について追っています。

未読の方はその1も是非お読みください↓↓↓

そもそも「三筆」とは


「三筆」は、日本において文字が熟成されてきた平安時代に端を発し、それ以降も各時代の能書家(書が上手かった人)のことを指します。その時代の書道界をけん引し、自らの書風を打ち立てた人たちを言います。

歴史的な書道の猛者たちはこちら↓↓

この中の「三筆」「三蹟」「寛永の三筆」はテストに出るかも。
ヒップホップのラッパーの名前だったとしてもカッコイイ。

以前のレイアウト編の動画ひらがなの歴史でもやりましたが、書道は、中国から文字とともに輸入されて爆発的に流行り、戦乱の世ではさほど変化が無く、太平の江戸時代にまたやや進化し、明治時代には一般的な文字利用の大変革が起こります(ひらがな一音一字)。

そしてその1でも見た通り、古来中国から書道家と言われる人はほとんど全員が政治家、官僚でした。それが、明治時代からは職業として専業書道家が生まれ、一般的に歴史学で学ぶ内容からは書道は外れていきます。

図にある通り、明治の三筆は、

  • 日下部 鳴鶴(くさかべ めいかく)1838-1922年

  • 中林 梧竹(なかばやし ごちく)1827-1913年

  • 巌谷 一六(いわや いちろく)1834-1905年

ちなみに、昭和の三筆はほぼ定まっていて(西川寧、手島右卿、日比野五鳳)平成の三筆も実しやかに囁かれているとか・・?
ってそもそもこの三筆、誰が決めているの・・・??

前回、日下部鳴鶴をご紹介したので、今回は中林 梧竹!


中林 梧竹(なかばやし ごちく)


(出典:Wikipedia 中林 梧竹

1827(文政10)-1913(大正2)年。日下部鳴鶴よりも10年余り年上。佐賀県の小城(おぎ)藩出身。江戸時代末期から明治時代全部、そして大正時代まで足を架けました。87歳没。書家や詩人みな長生き説。

そもそもこの明治の三筆の記事が始まったのは、筆者が中林梧竹の分厚すぎる作品集をメルカリで手にしたから。

定価35000円のところ3500円!

この作品集を元に梧竹の書道人生物語をご紹介します。


神童誕生。墨磨り過ぎて硯に穴?!副島種臣はほぼ同い年


中林家は小城藩の藩主の鍋島家に仕えていました。文人や学者を多く輩出する文化レベルの高い場所で育ちました。4歳から筆を持ち、9歳で評判になるほどの神社の額を書きました。
墨を磨り過ぎて、硯に穴を開けた子どもがいるらしい!とその名は近隣の藩まで届いていたとか。

ちなみに、ほぼ同い年の副島種臣(1828-1905年)は小城藩をまとめていた佐賀藩生まれ。2人は、佐賀において幼い頃から優秀なことで有名、「副島種臣は学問で名を成し、中林梧竹は書道で名を成すだろう」と言われていたそうです。


藩主に見込まれ、江戸に留学


幼い頃から書道で有名だった中林梧竹は、藩主の勧めで書道をさらに学ぶべく、16歳ごろ江戸に留学。山内香雪(1799-1860年)に入門、その後山内香雪の師匠であった、幕末の三筆のひとり市河米庵(1779-1858年)につきます。

▼和様から唐様へ
江戸時代は、一般的な文字は和様(日本風)と言って、御家流の草書体(くずし字)がメインだった。しかし江戸末期には、平安から続いた和様の流れが唐様(中国風)に大きく傾いた。その原因は、市河米庵らの唐様の書道スタイルの影響が大きい。明治の三筆の3人も、かなり唐様の書風。
そして、明治政府は唐様を正式書体として採用。現代の書道は未だ唐様が主体となっている。

中林梧竹は、中国の宋・元・明・清代の、蘇軾(そしょく 1036-1101年)趙孟頫(ちょうもうふ 1254-1322年)、董其昌(とうきしょう 1555-1636年)などの法帖を買い尽くし、研究・研鑽を積みました。特に王羲之(おうぎし 303-361年)に打ち込みます。王羲之は言わずと知れた書聖、書の天才、書の神様、みたいな人。梧竹の中では常に王羲之の書が標準としてあったようです。


45歳で書の道一本。天皇の目にも留まる


江戸で学んだ中林梧竹は、28歳で小城に帰藩。書道を続ける傍ら、役人の仕事をしていましたが、1871(明治4)年の廃藩置県のとき、45歳で一切の役職を辞して専業書道家となりました。もうそこからは今まで以上に人生すべて書道に捧げるようになったとか。

滝の水を汲み帰ってその水で墨を磨り、毎日千字を習い、百枚を清書。もちろん時間も必要だけれど、根気・執念・体力・気力も莫大なもの。近所の人は「あの人、滝の水を汲みつくすのでは?!」なんて噂が立っていたようです。

56歳で書道の本場中国の清にも渡ります。帰国後は副島種臣らの紹介により、東京の銀座当たりに住んでいました。

明治天皇も梧竹の評判を聞き、明治19年には天皇の前で揮毫をしています。また明治24年、梧竹65歳のときには、王羲之の「十七帖」の臨書を明治天皇に献上しました。


晩年も精力的に。本当に死ぬまで書き続けた


明治29年、梧竹は70歳で二度目の清国へ渡航。自らの書を向上させんと常に邁進しました。元々長鋒筆(穂先の長い筆)を長年愛用していましたが、晩年になればなるほど、毛の短い筆に変わっていきました。自分の書の進化を模索し続けました。

78歳で、最初の師である山内香雪の墓の向かいに自分の墓(東京都港区)を建てます。故郷の小城には度々帰っていますが、自らの最期を捧げる場所が書道の恩師の墓の前とは・・・。

86歳の時、脳卒中を発症。翌年故郷へ戻ります。療養を続けるが思うに任せず。しかしながら、書く気力だけは衰えず、ある時は看護師に支えてもらって筆を持ち、またある時は寝ながら手を出して書いていたり。死の三日前まで書簡や作品を遺したそうです。
病臥で故郷へ戻った最期2か月間にも、数多くの書を残しました。


中林梧竹の書


中林 梧竹の生まれ故郷、佐賀県小城市が中林梧竹記念館を作っており、デジタルミュージアムになっているため事細かに非常に多くの作品を観ることができます。

筆者の好きな中林梧竹の書の一部。

「快雨」梧竹59歳
「海外飛香」梧竹82歳
上は副島種臣の書の一部 最右部「帰」、下は中林梧竹の書の一部 2行目最下部「帰」
「帰」の文字はこんなにぐるぐるとするものではありませんが、この頃の書は今よりも文字の造形に自由なイメージ。



次回はラスト、巌谷一六に迫ります。


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