書道作品、読める/読めない論争
唐突ですが。
書道とは、文字周縁のたくさんの要素を使って
「現代一般の標準的な文字から遠ざかろうとする」行為
と言えるのでは。(AIの記事にも書きました)
書道家は日々それに邁進している。
「読める」「読みやすい」文字はもはやいくらだってあるけれど、それとは逆?方向にああだこうだ試行錯誤して、文字を使って一紙面を彩ろうとしている人たち=書道家、です。
この話のYouTube版はこちら↓↓
一般の人が「読める」書道作品づくりは、超絶縛りプレー
今言った通り、書道家は普段、一般の人が「読める」「読みやすい」ということをほぼ度外視する方向に訓練を積んでいるわけです。だから、書道作品は総じて「読めない」「読みづらい」。
ところで、「読める」「読みやすい」書道作品を作るのは簡単と思われがちなのですが、所謂美文字が書ければ優れた書道作品になるかと言われれば、ならないのは自明のことです。
一般の人が「読める」(且つ新しい)書道作品を作ることは、思う以上に難しいもの。いや、相当、ものすごく、難しい。
音楽で言えばCとGのコードだけを使って今までに聴いたことがない曲を作るようなもの(!?)、料理で言えば米と卵と醤油だけを使って今までに食べたことがない一品を作るようなもの(!?)かもしれません。
とにかく言いたいのは、一般の人が「読める」(且つ新しい)書道作品を作ることは、書道家にとってめちゃくちゃ縛りがきつい。
そのため、一般の人が「読める」(且つ新しい)書道作品は、いまだかつて誰もやっていない、誰も確立できていない、と言っても過言ではありません。
これは、書道をやらない一般の人にとって意外と思われるかもしれませんね。
もう少し、「読める」書道とは何なのか、紐解いてみましょう。
おもしろい書展
ところで先日、うどよしさん(お字書き道TALKSの書道家インタビューにも出演)主催の「おもしろい書展」のアート書道部門に、タケウチ、参加(出品)してまいりました。
動員数2000人超え!
おもしろい書展は、2024年で第12回目。年々動員数を増やし、今回は7日間でなんと2000人を超えるお客様がご来訪!
大きな書道展(日展とか読売展とか)がどのくらいの動員数なのか分からないですが(ちなみに先日のタケウチの個展は7日間で100人くらい)、今回会場に数時間いた体感としては、ひっきりなしにお客様が入ってきて大盛況な感じでした。
書道ってもしや人気・・・!?
「読める」縛りのアート書道部門コンペ
「おもしろい書展」は、一般部門(誰でも応募可能)、アート書道部門(プロを志す者)に分かれていて、タケウチが応募したのは後者。
他のアート書道コンペとの違いは、応募要件に「読める」という制約があったこと。(うどよしさんは元々「読める書道」の推進者であります。)
このコンペの審査員に二人の画廊のオーナーさんがいらっしゃいました。
そのうちのお一人の審査員の方が「全員読めない」ので賞を出さない・・・!という事態に。その方曰く、「特別な教養無しでも読めるような書で挑戦して欲しかった」とのこと。
一般的に、書道作品は「読める」「読めない」問題が付きまとうもの。読めないから敬遠される、というケースを、書道人なら皆少なくない回数で目の当たりにしていることでしょう。
「読める/読めない」とは
では、「読める/読めない」とはどういうことなのか。まずは以前の記事、「かんたん書道 6つの要素」もぜひご参照ください↓↓
「読める/読めない」は、
・書道をやっている人
・書道をやっていない人
で大きく変わります。
書道をやっていない、一般の人が「読める」
書道をやっていない人が読めるのは、主に、
・書体は、楷書体(及び軽い行書体)
・字体は、新字体(常用漢字)、及びひらがな+カタカナ等
のみ。平たく言えば、一画ずつが明確な常用漢字とひらがなカタカナ、と言えるでしょう。
もちろん、特殊な文書を読むなどの目的がなければ、通常の生活においてはこれで事欠きません。言うなればこれ以上は一般的に必要がない。読むだけでなく、書くことについても然りです。
また一般的に「読める」には、一画ずつが明確な常用漢字とひらがなカタカナであればよく、レイアウトは特殊なものであっても「読める」ことには影響をほとんど与えないと言ってよいでしょう。(文字と文字が侵食し合っている場合は別かな)
書道をやっている人が「読める」
一方で、書道をやっている人は、
書体さまざま(楷・行・草・隷・篆など)
字体さまざま(新字体・旧字体、異体字、変体仮名など)
字形さまざま(太細、潤滑、連綿、ハネ・ハライの長短・有無などのデザイン部分)
レイアウトさまざま(縦書き・横書き・散らし書き、紙からのはみ出し、重ねて書くなど)
支持体さまざま(基本は白い紙だが、色紙や木や布に書くなど)
などのとても多くの要素を適宜組み合わせて用います。
もちろん書道をやっているからと言って、他の書道家が書いたものが全部「読める」ということもありません。
その理由は、例えば、楷書・行書・草書の「竹」を知っていても、篆書の「竹」を知らないと言った知識不足の面や、滲みが多すぎて何の文字なのか分からないといった書き手独自の書きぶりの面があります。
とは言え、書道をやっていない人よりは多くの知識があるため、やっている人はやっていない人よりも、書道作品を圧倒的に「読める」ということが生じるというわけです。
書き手が文字という広大な海を溺れ泳ぎながら、なんとか一枚の紙を魅力的に支配しようとしたもの、それが書道作品です。
このことはどんな分野でも同じことが言えると思います。専門分野について多くの知見を得てそれを活かして創作をする、それは当然の行為です。まさに、「Standing on the Shoulder of Giants」。
もう一度、一般の人が「読める」書道作品づくりは、超絶縛りプレー
「読める/読めない」の原因を紐解いたところで、冒頭の繰り返しとなりますが、一般の人が「読める」書道作品づくりは、超絶縛りプレーであるというイメージが付きましたでしょうか?
書道の重要要素である書体・字体・字形の大半を封じ、常用漢字とひらがなカタカナのみをほぼ楷書体で新しい書道作品を生み出す。
もはやこれってフォント制作とかポップ制作の人の方が強い気がする・・・
読みたい場合は知識が必要、読めなくても鑑賞は可能
文字だから読みたい、というのはもうどうしようもなく人間的な欲求とも言えることだと思います。それが簡単には叶わないから、書道作品は鑑賞する以前に諦められてしまう。
それは書道勢として、なんとも悲しくて由々しい。
「読めるはず」の文字の芸術だから厄介
文字は基本的に読むもの。それは当然のこと。コモンセンス。だからこそ、知っているはずの日本語の文字が書かれているのに「読めない」ということにストレスを感じるというのもよく分かります。
でも音楽は、知識ゼロでも楽しめる。ドレミもコードも知らなくても皆楽しんでいます。絵画も然り。(もちろん音楽のあれこれ、絵画のあれこれを知れば俄然もっと楽しいでしょう)
音楽で言えば、書道はドレミやコードを皆がある程度知っているというような状況。それが社会生活のインフラのひとつでもあります。
「読める」ことへのある種の矜持のようなものが、書道作品の鑑賞を邪魔するのかなと思ったりします。
でも。
一方で当然ながら、読めなくても鑑賞は可能です。
ちなみにある書道家が、他の書道家の作品を観るとき、それほど「読む」ことは気にしていないものだと思います。
月並みなことしか言えないですが、読めない書道作品は「文字という素材を使って描いた絵」であると思って見てみてください。もう少し言えば、俯瞰した目線で、黒白のレイアウトに注目するのがおそらく見やすいのではと。
音楽を聴くように、絵を観るように・・・まずは手を放して観ていただきたい。
もちろん、書道的な「読める」を少しずつでも勉強すれば、「読める」!ものも増えてきてより楽しめると思います。二度も三度もおいしい!きっと!
さて、来年もまた「おもしろい書展」が開催されると思いますが、一体どうなるのだろう!!
でも縛りプレーが独特な方向性を拓くことはあるのではないか、とも思います。筆者も来年、超絶縛りプレー「読める」書道展に挑戦したい・・・かもしれない!
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