明治の三筆の作品は数万円で手に入る!?【その3:巌谷一六】
一般的にはかなーりガチ書道ネタ「明治の三筆」を追っております。
日下部 鳴鶴(くさかべめいかく)1838-1922年
中林 梧竹(なかばやしごちく)1827-1913年
巌谷 一六(いわやいちろく)1834-1905年
未読の方は是非その1、その2もどうぞ↓↓↓
今回は3人目、巌谷 一六(いわや いちろく)について!
巌谷 一六(いわや いちろく)
1834(天保5)-1905(明治38)年。日下部鳴鶴とほぼ同い年。滋賀県の近江国水口(みなくち)藩出身。72歳没。
古代中国から書家はだいたい政治家、官僚ですが、ちょうどこの頃かもう少し後から「専業書道家」が出てきます。日下部鳴鶴も中林梧竹も人生後半には書道家一本となっていましたが、巌谷一六においては書道の道も究めつつ、生涯官僚として勤め上げました。
菱湖流
巌谷一六は、幕末の三筆の一人、巻菱湖(まきりょうこ 1777-1843年)の菱湖流をはじめに学びました。
巻菱湖は現在でも意外と身近なところに。将棋の駒の文字です。数ある将棋の駒の中でも羽生善治氏はじめ強い棋士に人気が高いのだとか。
また、明治の教科書や書写の手本なども多くが菱湖流、一般の人々に浸透していた書体・書風であったと言えます。
楊守敬という人物
明治の三筆を語るには、中国の書家・学者である楊守敬(ようしゅけい 1839-1915年)という人物が一つのキー。
楊守敬は1880(明治13)年に、古代中国の碑の拓本等を携えて来日。明治の三筆の3人ともがこの楊守敬を訪問し、六朝の書風に衝撃を受けそれを学びました。巌谷一六は、特に北魏の楷書に魅せられ、自らの書風にもそれを取り込んでいきました。
その2で、江戸時代の和様(日本風)の書風から唐様(中国風)の書風に傾いた話をしましたが、楊守敬が拓本をたくさん持って来日し、それを明治の能書家らが目にする機会を得たことも、社会全体の唐様書風の定着、また唐様書道の隆盛に一役買ったのではないかと思います。
明治の三筆の作品は手に入る!
ここまで日下部鳴鶴、中林梧竹、巌谷一六の明治の三筆についてご紹介してきました。言うまでもなく、明治を代表する書道に優れた人たち。
歴史的にはあまり知られていなくとも、その作品はさぞかしお高い!ことでしょう。(買おうなんて発想にもない・・・?!)
実は、昔の人の書作品は、一般的なオークションサイト(ヤフオク!とか)やフリマサイト(メルカリとか)古美術商などで買うことができるものも数多くあります。
ざっと調べてみると、彼らの作品はなんと数千円~数万円ほどで買うことができます。(【真作】(本当に本人が書いたもの)であるかどうかは販売サイトや出品者への信頼でしかないですが)
しかし。
筆者は中林梧竹の分厚すぎる作品集をメルカリで3500円でかなり安く買ったわけですが、書道作品に市場の値が付かないというのはちょっと悲しい気持ちもあります。
明治の三筆は専業書道家の走りでもあり、3人とも比較的長生き、作品数も膨大にあることもあまり値が付かない原因でもありましょう。
何はともあれ、100年以上経過した彼らの肉筆を手元でまじまじ眺めることができるのは、書道好きにとっては幸せなことです。ピンとくる作品あったら買ってみようかしら・・・!
次回は、明治の三筆を鑑みて、書道が社会に与えてきた影響、与えなくなった影響などをまとめてみたいと思います!
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