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書道ってなあに?これから書道を定義してみます。(1/2)

こんにちは。お字書き道TALKSです。
このnoteでは、字にまつわるあれこれ様々をざっくばらんに記録していきます。YouTubePodcastもよろしくお願いいたします。

※以下の記事はタナカが書いた元記事に、タケウチが加筆したものです。


今日のテーマは、「書道ってなあに?」
書道って何でしょう・・・?ねえ・・・?
一般的には、墨と筆で和紙に文字を書くこと、だと思います。
しかし、例えば鉛筆やマジックで書いたものは書道(書)作品ではない・・・?、鑑賞者には一見すると文字なのか分からないものは書道(書)作品ではない・・?絵との明確な線引きはどこ??
明確にどれが書道(書)だ!と答えられる人は意外といないのではないでしょうか。

※私タケウチは書道家を名乗りますが、正直に申し上げれば「書道」が何か明文化しないままにやってきました。スミマセン・・・。

我らがWikipedia先生によると、

書道(しょどう)または書(しょ)とは、書くことで文字の美しさを表そうとする東洋の造形芸術である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B8%E9%81%93

とのこと。
ん-でも腑に落ちないというか、ぼんやりとしてこの文章からはどんなものなのかが全然判然としない。

実はこの書道とは〇〇だ、というのは明治頃から論争がありました。
題して、「書ハ美術ナラズ」論争。
洋画家の小山正太郎氏(1857~1916)VS 思想家の岡倉天心(1863~1913)
ざっくり言うと、画家の小山氏は「書に感動したとて結局書かれた言葉に感動しているから文学じゃん」、対して思想家の岡倉氏は「書は文字全般の配置や造形に対して工夫を凝らしているのだから美術だ」といった感じ。

今回お話をするのは書道が美術か否かという話ではありませんが(っていうか美術じゃないの?!それで言えば美術ではある)、書の世界は昔から明確な定義を与えられずに現代に至ってしまっている現状です。

その後も、書道とは〇〇だ、ということを書家のみならず哲学者たちまでもいろいろなことを言いました。

書は文学(小山正太郎(洋画家))
書は文字の美的工夫(岡倉天心(思想家))
書は文字の美術(井島勉(美学者・哲学者))
書は線の美(鮫島看山、上田桑鳩(書家))
書は人なり、書は生き方のかたち(森田子龍(書家))

「書とはどういう芸術か」石川九楊

これらを見ると、書は主に文字を扱うので、その構成要素である「線」の芸術である、とは言えそうです。しかし所謂文字以外を書いた抽象的な書道作品もありそうだし・・・そうだとすると、絵画との線引きはどこにあるのだろうか。
あと、書は人なり、というのは、絵は人なりでも音楽は人なりでも全く問題なく成り立つのでこれは定義として甚だ論外・・・と思います。

このことに関して深く掘り下げ、著書なども最も多く出しているのは石川九楊氏(1945~)かなと思います。

石川九楊氏は「書は筆蝕(ひっしょく)の芸術である」
と言いました。

ちなみに九楊氏が言うところの「筆蝕の芸術」というのは、簡単に言うと、筆記具が紙に触れることで生み出された何かと、紙側がその力全般を受けた後に滲んだりなどして形を変え現れた何かの合計値である、というようなことです。もちろん九楊氏の著書には詳細な説明が書かれていますのでそちらをご参照いただくとして・・・

「筆蝕の芸術」と言ったところで、たとえば水彩画は「筆蝕の芸術」とも言えてしまうのではないか・・?だって、筆記具が紙に触れたことで何かが生み出されているし、水彩画なら紙側も滲むし。
なんか混乱してきた・・・。

なので、改めて書道を定義してみます!というのが今回の内容です。

先に結論!!


これを書くに際し、あれこれ考察をしてみました。
そこで先に結論をば。書道とは、

「筆跡に責任を持つために書いたもの」

です。(言い切ってみる)

※ここでは全般的に「書道」=「書」として使っています。

例えば。
「字をキレイに書けるようになりたい。美文字だねって言われたい。それでは書道を習ってみよう。」という場合。
これはここでいう「書道」なのでしょうか。

もちろん単に「キレイな字を書けるようになりました」という願いが叶うだけならば良いのです。もしそれで自分に「書道をやっているワタシ」という属性をくっつけたい場合には、それは書道ではないぞ。ということです。
あ、「書道教室に通ってるワタシ」は正解。

補足すると、これは別に厳しいことを言いたいとかそういうわけではなくて、美文字と書道はその「目的」が異なるよ。言葉の意味や定義を考え、正しく使っていた方が頭の中がすっきりクリアになって楽しく暮らせるのではないだろうか。ということです。

もう一度定義を確認しておくと、書道とは「筆跡に責任を持つために書いたもの」です。もう少しわかりやすく言うと、「筆跡→ワタシ」という個人と対応関係にあることを利用して、「その筆跡によってワタシを表そうとしたもの」また「表す行為」 ⇒ 書道だということ。

ということを踏まえて、いわゆる美文字において。
ただ単に「キレイな字を書きたい」または「書きました」というのは、概ね匿名性のキレイな字を目指しているケースが多いでしょう。むしろ「筆跡の責任」というものから逃れようとしている行為とも言えるかもしれない。

視点を変えてみると、一般的に言ってその文字が「キレイな文字」か「汚い文字」かは別にして、これがワタシの筆跡です、この筆跡がワタシのこれまでの身体的な習慣の総集編で、その文字を見る人に対して、「ワタシの筆跡」を用いて社会というフィルター越しではない明け透けなワタシそのもの、または明け透けなワタシの一部分を開示しようとするもの。そのために書かれたものならば、それは何であれ書道であると言えるのではないか。

何もしなければ何の責任も発生しないのに、ワザワザそれまで存在しなかった責任の領域をこしらえて、ワザワザその責任を取るために「書く」(または「描く」※後述)。そして現れる「書かれたもの」。これらの輪の中にあるものが書道であると。

こう考えると、一般的に言って相当マゾヒスティックな分野ですよね。

「筆跡に責任を持つために書く」というあまりにピンポイント過ぎる行為


いったい何のために!?

それは前項の通り、書道は、この筆跡がワタシのこれまでの身体的な習慣の総集編で、その文字を見る人に対して、「ワタシの筆跡」を用いて社会というフィルター越しではない明け透けなワタシそのもの、または明け透けなワタシの一部分を開示しようとするものであります。
目的はこれでしょうね。表現したいタイプの人種。元来の表現者なわけです。

こうイメージすれば、美文字を目指すことと、書道を目指すことが異なることだというのは理解しやすいのかなと思います。そしてもちろん、美文字を目指しているうちに、気が付いたら書道を目指しているということもあるでしょうし、その方は元来の表現者であったと。

また、ここで言っているのは「筆跡」についてであって、「書かれている文字や文章の内容」については切り離して考えましょう。僭越ながら書は文学じゃんといった小山正太郎氏を否定しておきます。
加えて、字体の表現などといった要素も書道には含まれるかと思いますが、字体に対する知識や理解があろうとなかろうと、それを踏まえても、あるいは踏まえずとも「筆跡」というものは発生しますので、とにもかくにも「筆跡に責任を持つために」書いているならばそれは書道で、仮に字体の知識や理解の深さを示したとしてもそれは単に資料制作の意味しか持ちません。その書かれた文字に備わる「筆跡」がワタシという個人と対応関係にあることについて責任を持つものが書道です。

ですから、自室にこもって誰とも会わずにひたすら紙に自らの筆跡そのものをあらわし続けた人がいたとすれば、その書きあがった紙などの束が誰の目に触れることが無かったとしても、その人は書道をやっていたと言えますし、深い字体の知識や理解に裏打ちされた美しい書き文字を世の中に届け続けたとしても、筆跡そのものに責任を持つ態度が無ければ、今回お話している意味での書道家ではないのかなとも思います。

そしてもちろん、筆跡そのものに責任を持つ態度はあらゆる人にとって本来的には必要がありません。筆跡鑑定の結果には従わざるを得なそうだくらいのことで…。
書道家と呼ばれる人たちは、そんな責任を誰に頼まれるでもなく自ら負っているのですねえ。

どれが書道で、どれが書道ではないか


書道は、「筆跡に責任を持つために書いたもの」
という定義。
では具体的にどんなものが書道で、どんなものが書道ではないのか。

まず、我々の定義においては、書道は大きく絵の一部であり、またさらにドローイング(線描)の一部に位置する(次回後述します)と考えます。
例えば、一見書道とは思われない鳥の形をした線描画についても、作者が「筆跡に責任を持つために書いたもの」であると言えば、(今回の分類においては)書道に分類します。
(ここたぶん斬新な気がするのですがどうでしょう・・?)

しかしながら、書きあがったものに文字や線描の持つ「筆跡」という要素が含まれさえすれば書道かというと、それだけでは足りないよというお話が本章の内容。

これは簡単な話ですが、走り書き、殴り書きされた何かメモ。そんなことをイメージしてみると、これは一般的に考えて、書道作品ではないですよね。

ですが、ここには筆跡の要素が含まれますし、ミステリー小説の犯人がその時刻にいるはずのない場所に残した走り書き・殴り書きのメモ、そんなものがあれば筆跡鑑定でアリバイが崩れたりするわけです。筆跡は、書いた人に1対1対応で結び付くもの。

だから、字が汚いとそのことがワタシと1対1対応で結び付いてしまうのは社会的にあまりよろしくないぞ、と感じる方が「美文字」の習得を目指したくなる気持ちもわかります。

そして研鑽を積み、「美文字」を習得できました。やった!

でもここで起きたことは、「汚文字なワタシ⇒美文字なワタシ」と言う変化であって、文字が汚かろうと、美文字だろうと、その「筆跡が1対1対応で結び付くワタシ」をあらわすためにわざわざ書いているという訳でなければ、それは書道作品ではないと言えます。

あるいは、美文字なワタシを示すことが目的で、メールでもLINEでも構わないところを敢えて直筆のお手紙を書いたとしたら、それは書道作品と言えるかもしれません。

もちろん手紙に偽装・擬態しているとはいえ、「作品」なのですから、作品であるならばその手紙の文章内容によらず当然世間に公開され、「その筆跡」について良いも悪いもとにかく批評にさらされることを受け入れなくてはなりません。やれ、これは美文字ではない云々など。
これが「筆跡に責任を持つために書いたもの」と言っているイメージです。

書かれている文章や言葉などの内容は全く関係なく、「筆跡に責任を持つために書いたもの」であればそれが書道、書道作品だと言っています。

ワタシが筆跡に責任を持つために書いたのですから、無論本人の意思表明によって書道は成り立ちます。むしろそれだけで良い。


書道ってなあに?これから書道を定義してみます。(2/2)

へ続く。


※毎週木曜19時更新

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