#65『とんでもなく全開になれば、すべてはうまくいく』
このとんでもないタイトルに目を惹かれたのは、そう、8年か9年ほど前のこと。離婚し、人生が軽くなったと思いきや、また別の壁が現れた。というかそれはずっと同じ壁だった。そして今もまだある壁でもある。違いは、今現在の私はその壁の前で焦らなくなり、呪わしい気持ちにもならなくなり、ただ時々その壁にもたれてのんびり本を読んでいる…といった所である。
閉塞状態をどうしたら打開できるのかと、当時、寝ても覚めても考えていた。そんなある日、amazonを開くと、お勧めの本で出てきたのがこれだった。とんでもなく全開になっていない自覚ははっきりとあった。「とんでもなく全開、とんでもなく全開ねえ…」と、そのタイトルだけから何かのヒントを汲み出し、購入はしなかった。
一昨年くらいになって、ようやく購入した。動機は? 忘れた。しかしその頃には第二の結婚の別居が始まっていたので、やはり閉塞感を打開したかったのだろうか。にもかかわらず、頁を開かないまま月日が過ぎた。
ようやく今日、読んだ。
という長い前日譚。
著者は占星術師である。しかしこれは占星術の本ではない。一見、引き寄せの法則に類したもののようである。しかし違う。著者は引き寄せの法則に対して反対的な立場を取っている。そこが良い。また自己啓発系の「思考を現実化する」に対しても反対している。
諸々の点で、私の考えに合っている。
では著者の主張は何か? 要約すると、
①自分が何かするのではなく、神がそれをする
②自分のエゴを捨て去り、愛と信頼に集中すれば必ず万事上手く行く
③そのために神に対して能動的に語り掛ける。その際、(A)感謝します(B)委ねます(C)既に叶えられています、ということを明言する。
④待つ
引き寄せ・自己啓発と違うのは「自分の欲求願望を駆動原理にしない」という点。引き寄せも思考現実化も、出発点に「自分の願望」がある。しかしそれがどうしようもない願望だったらどうするのか? 多くの場合、くだらない願望だろう。
なかなか修業を積まないと分別がつかないことだが、願いの多くは、実際にはエゴから生まれることが多い。
私がアンソニー・ロビンズ(#54『一瞬で自分を変える法』)などを好まない理由は「脳の最適利用法」について語るばかりで、著者の言うように、神がどこにもいないからだ。確かに効率さえ上がれば神は不要かもしれない。しかし効率が人生の目的ではないはずだ。人間は願いが叶うことに喜びを見出す生き物ではあるが、実感としてはそれ以上に、神の役に立てている時に、もっと喜びを見出す。
「神の役に立つ」と言うと非常に宗教的に聞こえるかもしれないが、自分の中から自然と湧き出るような善意によって、今目の前にいる人に親切に出来たり助言を与えたりすることが出来た時、それが「神の役に立つ」ことだと私は思う。なぜなら愛に溢れる行為や心情は、神を源とし、神は世界を愛で満たそうとする力だから。…ってかくと、やっぱり宗教的に聞こえると思うけれど。
本書は非常に軽い調子で書かれていて、理解に苦しむことはまずないし、気分も重くならない。いいなあ、こんなふうに楽しく生きられたら、と思う人はきっと多いのではないだろうか。
私個人の収穫は、深い内省だった。こういう生き方をしているので、「人生を受容する」という点に関しては私は人後に落ちないと自負している。が、それでもまだまだだ、と本書を読みながら思った。
私にはまだ苦しみや寂しさの相があると感じた。失うものを繋ぎ止めようとせず、どんな現実にも肯定的に対処する、という意味では、私は非常に受容的な精神を得た。けれども、嬉々とはしていない。これは現状に対する不満というより、元々の人格的な傾向で、「嬉々として」は基本姿勢としてまだ遠い所にあるのだ、ということを理解した。著者は、楽しそうなのである。
「人生に起きる全てを受け入れる」と言うと、多くの人が、辛いことを先に連想するかもしれない。そりゃそうだ。楽しいことはわざわざ「受け入れる」なんて言う必要がないし。
しかし本書を読んでいると、神の風の前にもっと自分を透明にして、得たり失ったり、動いたり止まったりということを、喜び楽しむことなのだな、と思った。これが私の新たなるステージ。
読みながら、頁から目を上げては物思いに耽ったり、途中で中断して瞑想したりした。そういう方向に自然と意識が引っ張られた。
「とんでもなく全開になるメソッド詰め合わせ」みたいな感じではなく、味わいのあるエッセイ集という所だろうか。霊的エネルギーの法則についても広く学ぶことが出来る。
とても良い本である。