#183『影とのたたかい』アーシュラ・ル=グウィン
いわゆる『ゲド戦記』の第一巻である。この本を読むのは4回目くらいで、三部作の中で一番好きである。今回も、非常に素晴らしいと感じた。物語世界の空気感、設定、辿る過程、語られる言葉、様々な禁則、そして仔細にわたる世界の描写が得も言われぬ充実と濃密を伝えている。
初めてこの本を読んだ時、私はヒーラーではまだなく、小説家志望だった。二度目、三度目に読み直した時にはヒーラーになっていた。この物語はヒーラーのような超能力者じゃないと、本当の本当には分からないようになっている。というのも著者は明らかにこの世界における魔法使いをアメリカ先住民の呪医をそのその発想の源としており(事実、著者の父親はその道の研究者だったこともあり)、アメリカ先住民の呪医の伝える道とは「力の掟」なのである。アメリカ先住民であろうと、他のどの人種であろうと、およそヒーラーというものは道を極めようと思えばこの掟に必ず従わねばならない。もっともヒーラーにも松竹梅があるように、この空想物語世界においても魔法使いに松竹梅のレベルがあり、その知恵と力と制約は必ず比例関係にあるのだが。この辺りに、「その通り!」と深く頷きながら読む私であった。
逆に言うとーーこう言うととても偉そうなのだがーーヒーラーではないのに、小説家がその心の内面の探求において(いくらかの先人の研究からの学習があったとしてもだ)ここまで力の法則を理解していることが素晴らしい。エンデも同様なのだが、このレベルまでの小説家になるとどうもそういうことが分かってしまうらしい。だから多分これらの人々はその気になりさえすれば充分に高度なヒーリングが出来ただろうと思う。それより低いレベルの小説家が描く魔法や奇跡というものは、空想の域を脱しないものなので私にはつまらなく見える。
もっともそうは言いながら、魔法やその掟について、説明について、ややもったいぶった所もあるにはあるし、過剰に慎重になっている所も、どうにも判然としない所もある。ただそれはあくまでもヒーラーの独特の職業的な見解であり評価なので、大目に見ていいかな、とは思うのだが。
ヒーリングの話は以上として、純粋に文学作品と見た時、私は自分の創作において多くをこの作品に負っていることが改めて分かった。私が著者から学んだ「語り」の姿勢は二つあると思う。
・とにかく、言葉を発明し、その言葉で世界を彩る
・素っ気ないまでに語りを割愛する
どちらも初読の時に驚いた。後者については、第二巻に移った時、第一巻の世界をまるごと置き去りにしていく感じ(実際にはそうではないのだが、驚くほどの時間的断絶を用意している)、あれには惜しいような、しかしそれ以上に大胆さに感嘆した。その裁断の妙は第二巻と第三巻の間にもある。
前者については、これほどまでに徹底した、そして濃密な方法を知らなかったので、これも驚かされたものである。不思議なもので、RPGなんかを子供の頃からやっていたから、架空世界が架空の名前で語られるというのは慣れているはずなのである。しかし所詮RPGの架空の名前というのはゲームを進める上での便宜の集積であって、要するに出鱈目に配置されているに過ぎないから、一貫した世界像を伝えることはない。しかし優れた幻想文学というものは、気候風土、地形、文化、伝承、言語、通貨、人種など、そういうものの全てを考え尽くし、著者の創造と「発見」の及ぶ限り、詳細に描き出そうとするものである。ゲドが通り過ぎる一行にだけ出てくる島の名前であっても、その島について尋ねれば膨大にして無尽蔵の物語が著者によって語られることだろう(著者自身が別の本でそう語っていた)。そういうこともあり、この物語は地図を見ながら読むのが楽しい。今ではゲドの航路もだいたい頭に入っている。
で、後に私も自分の創造世界には名前を詳しくつけるという発想を得たし、そのおかげで自分の物語は深まったし広がったと考えている。大きな恩恵を受けている。
読みながら、再び自分の物語世界を書き直したいと思った。いつかいつかと思っているのだが、いつか試みたいと思う。やりだすと大変だから、当分手を出せそうにないが。様々な経験を経た今、もっと深く鮮やかに詳細に、描けるだろうと思う。
素晴らしい作品である。
最後にもう一つ重要なことに、挿絵の版画が素晴らしすぎて見飽きない。
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