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#184『さいはての島へ』アーシュラ・ル=グウィン

 『ゲド戦記』第三巻にして、出版時点では完結編とされていた作品。このたび久しぶりにこの三冊を通しで読んでみたのが、本書も第二巻に続いて、微妙である。私の印象としては、やはり凄いのは『影とのたたかい』であって、後の二冊はその後光を受けてのことかな、と思わざるを得ない。何が足りないのだろうか。
 まず話の進行や語られていることの内容に、強い集中が見られない。主題はぶれていないので、話の筋は一貫している。しかし寄り道や要領を得ない会話が多く、緊張感と展開の力に欠ける。
 話の大筋としては、魔法の力が世界から失われる、その原因を突き止めるために行く先の知れない旅に出て、問題を解決する、というもの。
 これまでを振り返ると、第一巻は自己の内面に関わる問題を扱っていた。人間の心には無意識という層があり、それを拒絶して生きれば分裂症になる。だから「影」と一つになることは、精神的達成だったのである。しかし人間の心の旅はそれだけでは終わらないから、第二巻では「他者」が出てきた。分かり易く、ツインソウルのようなものである。相手が影の場合、自分が受け入れさえすれば問題は解決される。しかし相手が他者である場合、自分が受け入れるだけではなく、相手もまたこちらを受け入れなければならない。テナーは最初、ゲドを受け入れることは出来ないばかりか、出来ることなら抹殺したいほど拒絶していた。しかし明白な象徴である腕輪、それと二人が対話によって作り上げた相互信頼、更に二人が等しく陥った苦境が、二人を結束させた。第二巻の出来に対する評価は私の中で高くはないが、ともあれ第一巻と第二巻はこのように妥当な連続性を持っている。
 で、さて次はどうなる、という話である。
 第三部では扱っているのは「世界」である。まあ、この発展も妥当と言えるだろう。だんだん関わる対象が大きくなっていく。
 この世界において起き始めていたことは、魔法の消滅だった。しかし表現がいまいちで、会話は不明瞭、割と「またか」という感じで何度か繰り返される。失われつつあるものは魔法自体というより、その根底を成す人間精神、人間らしさだった。だから各地で、人間は知性、精神性、倫理、技術、知識、言葉などを失っており、ある地域においては廃人、薬物中毒、譫妄患者が溢れ返っている。著者もかなりトリップしながら書いていたのではないかと思うのだが(薬物をやっていただろうという意味ではなく)、読んでいて気持ち良くない。正直、狂人の会話文にそんなに文字数を割かんで良い、と思った。第一巻なんかは、どこを読んでも比較的美しい言葉に満ちていて、叙事詩的になっており、そこがゲド戦記の風格を支えていたように思う。うん、それを読みながら思ったのだが、第一巻は「ゲドの武勲」という詩を引用しているように、言い伝えという形を半ば取っていた。そこが魅力だったように思うのだが、第二巻で筆致はだいぶ緩み、第三巻ではほぼ撤回されてしまっている。第一巻ならば狂人の言葉はほどほどに距離を取った所から要約して済ませたことだろう。第三巻は視点が近すぎるのである。勿論、だからこそ狂人の狂いぶりが分かり、それを通じて世界の乱れようが伺えるのだ、という解釈もないではないが、望遠鏡で夜空の一画から一画にいきなり視野を移すとどこを今見ているのかすっかり分からなくなってしまうように、本書においても、「え、今の話、何」みたいに視野がいきなり切り替えられる箇所が2つ3つあり、しかもそれが全然効果的でないというか、良くない。太った女やどこかの村の人々やトリオンの話は不要だったか、大幅に割愛してよかったと思う。筏族もソプリの話も、まあいいっちゃいいが別に、という感じ。それより最後の敵であるクモのことをもっと書き込んだ方が良かったのではないか。
 クモもいまいち残念なラスボスで、問答だけで片が付いてしまった。しかもその問答は完璧無比の論理の応酬という訳でもなかった。結局、言っていることが支離滅裂なので、ゲドと話している内に自己矛盾に追い込まれて崩壊した感じ。要するにただの愚者だったんじゃないかというオチである。
 考え直すと、第三巻における問題の発生源を辿る過程は、第一巻における終盤の影の追跡と全く同じ展開で、新鮮味がない。問題解決の土壇場に関しては第一巻の影との融合の方がはるかに鮮やかで感動的である。三部作の最後の敵が単なる欲深な愚者であり、それを諭すことで解決に至ってしまったのは、締めとしては弱すぎた。
 それとル・グウィンの政治思想がどのようなものかは分からないのだが、王に誕生をもって完成と見做すのはちょっと素朴すぎるのではないか。その前振りとして第二巻の腕輪の件があるにせよ、逆にそれほど王権に対する信頼があるのならなぜ数百年もハブナーの王座が空位だったのか、謎である。
  
 第一巻、第二巻の主題が心理学的なものだとしたら、第三巻は文明論的なものであり、現代文明に対する不安が著者にこの本を書かせたことは間違いないと思う。しかし現代文明における退廃や停滞はかなり複雑な様々なエネルギー運動の結果生じているものであり、どこかの誰かのーーそしてどこの誰でも理論的にはあり得るーー野望によって起こるものではあり得ない。本書ではクモがその無謀なる野心家であり、世界の均衡を見出した張本人であるわけだが、実際にはそう単純な話ではない。思うに、世界を乱すのが一人なら、整えるのもまた一人、ということで、前者がクモ、後者がアレンとして描かれているのだろうが、やはりこれではエヴァンゲリオンみたいな構図になってしまうのではないかな。『シン・〜』の碇ゲンドウの自閉症的支離滅裂、自己中心的野望、そしてそれに自分で気付いて勝手に消え去っていくのも非常に白けた目で見ていた私だが、考えてみたらクモも全く同じ。まあ別にそれならそれで良いのだけれど、折角の重厚で濃密なアースシーの世界観には惜しすぎるのではないかと残念である。
 私なんぞが言うのは非常に失敬なのだが、著者もこの時点ではまだ若かったのかなあという気がする。自分の心の闇を見つめる、均衡を学ぶ、世界の崩壊を食い止め、再生させるーー大筋としては#182『はてしない物語』と同種だが、構成力では大きく及ばない。やはり第一巻が、この三部作の華であり、幻想文学の遺産であろう。

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