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#182『はてしない物語』ミヒャエル・エンデ

 再読。これほどの本の内容がなぜ記憶からほとんど脱落していたのか分からない。超重量級の名作である。あの当時の自分には繊細で、美しく、精妙で、また奥深く、底知れないものだったのだろう。このたび読み返して大きな読後感に包まれた。至上の本、というのが一言の感想である。
 内包される一つ一つの物語や情景が、それ自体で独立的である。そこが何とも言えず素晴らしい。この物語は一直線ではなく、螺旋形でもなく、喩えて言うなら一つ一つの部屋に、ただ覗き見るだけでなく、奥まで入り込んでいくような感じだ。全ての部屋は異なっているが、どこかで繋がっている。しかしそれでいて絶対不可欠な訳でもない。だからなのだろう、万華鏡を見ているような体験をする。この読ませ方はとても効果的でファンタージエンという空想の国を読者は共に旅することになる。
 仕掛けもまた素晴らしく巧妙である。本の中の本、物語の中の物語、夢見る者が見る夢、という設定そのものは多くの作品に見られるが、本作の仕掛けの絶妙は群を抜いている。この本そのものが外側と内側が一体になった仕掛けおもちゃのようになっていて宝物に思えてくる。
 この仕掛けの見事さを大きく印象づけるのが中盤の折り返し辺りで、それまでの流れを一旦止めて物語が新生する。後半はかなりユング的である。エンデがどこまでユングを知り、調べていたのかは知らない。しかし意識の深層から浮上してくる生の衝動、それによって作られる心の病と世界の歪み、エゴを浄化することによって到達する幸福の境地という流れは完全にユングが説き明かした心の構造と一致している。しかし先輩心理学者の学説の流用というような話ではない。ユングが見抜いたのと同じ、人間の定められた心の軌跡を、エンではやはり同様に自分の力によって見抜いたのである。溢れる知恵の言葉の数々と、必然としてもたらされる因果応報には、かなり、唸らされる。
 多くの優れた物語はこのプシケー(ユング的な文脈における「心」)の問題を必ず扱うことになる。しかしどこまで深く入り込み、どの辺りで解決を見出し、どこで引き返してくるかということは作家の力量次第、願い次第である。私がこれまでに知る限りだと、エンデが最も深く旅した人である。このもっと近距離の旅なら私も自身の小説でしたことがある。しかし本作に比べたら潜水距離は10〜20%くらい。ゆえにこの本は至上の物語であると思えるのだ。
 この大作を書く年月の生みの苦しみを思わずにいられなかった。圧倒的な孤独を感じた。並の人間にはとても務まらないし、多くの作家も時間的体力的には持久できるだろうが、ここまでの沈潜は不可能だろう。物語が終わりに近付くにつれてそうした空気を感じた。まさしく偉業である。
 締め括りは非常に愛に溢れて美しい。ハッピーエンドはしばしば過程の深刻さを帳消しにしてしまい興醒めであることがあるが、この作品は絶妙な方法でそれを迂回しているし、更に物語の解決を昇華している。個人の物語が万人の辿り得る経験となり、個人の気付きと喜びが万人に伝わることをバスチアン少年にエンデ自身の存在を重ねて示唆している。
 人類の宝と呼ぶべき本だろう。

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