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#63『上杉鷹山の経営学』童門冬二

 素晴らしい評伝である。上杉鷹山の理想と人柄、情熱と知性に満ちた行動力が、人肌として伝わってくる良書。
 いつの時代も革新的な人というのはいるものだが、上杉鷹山は際立っている。ほとんど聖人と言って良い。読みながらイエス・キリストの言動が重なって見えてくる程、彼の言葉は思いやりに溢れ、虚偽や諦めの向こうにきらめく真実や希望を透視している。そしてそれを必ず実行する。旧来の型に囚われることなく、今本当に必要なことをする。
 彼のしたことは同時代人の度肝を抜く大改革だったが、しかし改革それ自体を目的とする現代の左翼勢力とは全く違う。民のための改革、という一点から彼がぶれることはない。そして変化を上から押しつけるのではなく、まず自分たちが無用の虚勢を捨てることによって民の中に溶け込んでいき、人々の心を興し、それが次第に経済を循環させて、改革の成功を実感させていく。実感を得られた改革は、次の段階では民衆によって自発的に継続される。つまりこれは教化なのである。
 上杉鷹山は藩の経営を回復軌道に乗せたが、第一に見たのはあくまでも心であって、金ではなかった。心が荒み、力を失った結果としてのみ、経済が停滞していたのである。
 同時代にあって経済停滞を見抜くこと自体は、誰でもとは言わないが出来る人には出来るし、そのために「経済から」はっぱをかけることは、ほとんどの人が思いつくことである。しかし「心から」経済を回復するという発想を取ることが出来る人は世にも稀だろう。こんな人が日本人にいたということが、私には誇らしくてならない。
 「心を変える」という時に直面する問題は、経済それ自体を上向かせようとする努力に伴う苦労よりはるかに大きい。こんなに正しいことをしているのに、と歯噛みしたくなるほど、上杉鷹山は重臣から非難される。旧来の伝統をひっくり返してまで民を救おうとする君主を、家臣でありながら蛇蝎のように嫌い、見下す者たちがいつもいた。彼は若くもあり、他藩から養子に入った。それで見くびられてもいたのである。それでも上杉鷹山は彼ら反対者に対して激情的に反発することは決してなく、だからと言って自分の信じる改革を止めることもしなかった。自分の為すべきことは民の救済であり、その目的のためには自分が中傷されることなど問題にしなかった(少なくとも顔に出さなかった)。
 その上杉鷹山が、遂に反対者たちに正義の鉄槌を下す時が来た。簡単に言えば、彼は怒った。しかし怒りを表す時こそ、その人の器量が示されるのではないだろうか。上杉鷹山は自分が怒りをそのまま表さないことをまず選んだ。和解の手を二度三度差し伸べた。それから彼らが拒絶したことをしっかり見届けた上で、切腹を含む重刑に処した。
 優しさや思いやりだけでは足りないものが人間には確かにある。「この人を怒らせたら怖い。そしてこの人は本当に大事なことについてだけ、不正があった時に怒る」ということを示した時に、その人の本当の力が明らかにされる。
 また上杉鷹山は長年自分の片腕として補佐した人間も、その者が不正に染まった時、切った(終身謹慎処分にした)。これだって、そうそう出来るものではない。改革のために共に戦ってきた仲間たちは、その者を庇った。その気持ちも分かる。しかし改革者が身内贔屓を始めた時、その改革政権は必ず堕落を始める。上杉鷹山はどんな前例を知っていたのか、それとも魂の直観によってそれを為したのか、絶対的な信頼を置いてきた部下に対してさえ、正義と真実を曲げることはなかった。
 
 上杉鷹山の人生はそのまま物語を読むかのようである。力なき者が自分の意志に依らず権力の座に座らされると、その国は疲弊していた。彼は民を救うために願いを立てるが、若き日の身には至らぬ点がまだまだ多い。信頼できる少数の部下たちに叱咤激励され、彼は大きく成長していく。自ら貧困の中に入っていき、民と心を通わせ、因習の閉塞を打ち破り、暮らしを一変させていく。さながら埃を被ったカーテンを開けて光を部屋に取り込むように。反対勢力は根強く、彼を力を弱めようとするが、彼はそれ以上の力で悪を断ち切る。次には最大の仲間が闇に落ちるが、この時も彼は理想から視線をずらすことなく、道を誤った者に天の罰を示す。やがて彼は後継者に座を譲って引退した。しかし速やかに国は再びの荒廃を始める。民や家臣から請われて、彼は再び指導者として返り咲く――。
 この最後の引退から復帰までの流れは、何か神話的である。どんな改革も慣れが生じると新鮮さを失い、「こんなことをしなくても良いんじゃないかな」という思いが湧いてくるものである。だから天は上杉鷹山を引退させることで、人々に思いを改めさせ、強く固めさせたのだろう。やはり俺たちは上杉鷹山の示す暮らしをしたい、と。
 彼が民にため国のために為したことは今も米沢の地に根付いているという。米沢を訪れたいものである。

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