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#185『帰還』アーシュラ・ル=グウィン

 ゲド戦記三部作が終わってから15年ほどして刊行された本。まあ、こういう手順だと「あと付け」になるのはありがちな話である。そしてだいたいあと付けというものは良くない。ご多分に漏れず、この作品も良くない。駄作とは言わないが、完全なる失敗作である。
 ゲドは第三巻において魔力を失った。そして故郷に帰還する。迎えるのは第二巻で魂の伴侶と目されたテナー。彼女は第三巻では全く語られなかったから、読者はようやく彼女が第二巻の結末以降どうなっていたのかを知ることになる。

 本書は著者のフェミニズム的思考を表現する舞台となっている。それがそもそもの間違いで、アースシーにおいてそれをやる必要は全然なかった。確かにこの世界において魔法=力=男、という三位一体は繰り返し強調されており、女は二流の扱いを受け続けている。だからアースシーを裏側から見るとどうなる、という着眼自体は悪くない。が、いかにもそこに現代アメリカのフェミニズムの空気が入りすぎてしまっていて台無しである。
 女性側の主張は一方的、断定的で、男との間には埋められない永遠の溝があることを繰り返し主張する。勿論、世の中にはそういうふうに世界を見て生きている女性も多いだろうが、ことさらそこにばかり注目しなくても良いのではないかなと思えるほど、男との相互不理解、相互毀損、そして敵対的関係に集中し過ぎている。
 一方、男性側のゲドは正編三巻から見る影もない無能力者、敗者として描かれていて気の毒な余りである。
 著者の設定に無理がありすぎる。本書は第三巻が終わった時点から始まる。つまりゲドは魔力を失ってからまだ数日という所。普通、ここまで落ちぶれない。いくらなんでも性格変化が早すぎる。魔力を失ったのは事実だが、偉業を為したのもまた事実なので、そちらの誇らしさを一方では感じているのが心情表現として普通だが、彼にはそんな気配が全然ない。そもそもゲドは内面を見つめ続けて数十年も魔法使いをやってきたのである。この期に及んで魔力を失ったからと言って、自尊心も他者への配慮も失う訳がない。著者が積年の男性不信や男性への敵対心をゲドにぶつけて、過剰に彼の尊厳を貶めたとしか思えない。
 最後も良くない。非常にグロテスクで、品位に欠ける。このような発想の源をどこから得たのだろうと思うと、やはり現代アメリカの病理としか言いようがない。作者が自分の過去の作品に復讐する、というようなことはありがちなことだが、著者は徹底的に男=力=魔法という三位一体を否定しつくしたいかのようである。そのためにこの三つを非常に邪悪なものとして描いている。だが、全体の整合性から考えると、男がここまで悪人、犯罪者、または小心者としてのみ描かれるのはおかしい。オジオンとアレンだけは「立派な男」として描かれているが、著者の心象風景からは巧妙に除外されている。すなわちオジオンは早々に死に、アレンはちょっとだけ出てすぐ退場。
 この本はどこにも褒める所がなかった。

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