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#5『呪術と占星の戦国史』小和田哲夫
非常に興味深い本だった。
戦国時代に対して何となくこうだろうというイメージを持っている。それは想像力の不足だったり、実体験の(当然ながら)欠如だったり、あとは大河ドラマその他の刷り込みだったりする。
それがどんなものかと言うと、男共が「うおーっ」と気勢を上げて刀を振り上げ、がちゃがちゃがちゃと甲冑を震わせ、馬が嘶き、命運尽きて切腹し…とまあだいたいそういう光景だし、もっと離れた視点で見れば「****年**の戦い」みたいな感じで、よくよく考えてみると面白いことに、大して知らない癖に、ものの見方は結構、通り一遍に固まってしまっているのである。「実はこうだったのかな」なんて自由に思いを馳せることはない。
ところが実際には戦国時代の君主たちは占いや縁起担ぎに随分頼っていたという。今日は日が悪いとか、悪い夢を見たとか、おみくじの結果が良くなかったという理由で戦の日をずらしたりしている。
本当かいな、と思うのだけれど、いや、逆になぜそこで私たちは違和感を覚えてしまうのだろうか。
多分それは私たちが戦国武将たちを偶像化しているからなのだろう。それは等身大の人間として見ていないということ。
私たちの多くは(私は幸か不幸か該当せず、だけれど)ほとんど毎日働いている。当然、休みがほしい。というか必要である。戦国武将も同様に、と著者は言う。
「戦国時代は毎日が戦いの連続だった。本当に毎日戦っていたのでは息が続かないし体が持たない。敵味方共に悪日は一種の休戦日の意味も持っていた」72
あ、そうか、そりゃそうだ、と気付く。私たちは戦争をしたことがないから、「そんな理由で戦争をしたりしなかったりするかな」と思うけれど、彼らにはこれは言ってみれば通常業務だったのだから、休みながらでないと出来なかったはず、というのは納得のいく説明。土日休みという時代ではないから、「いやあ、今日は仏滅なんでねえ。相手だって休みたいでしょう」くらいが妥当な理由付けになる。
偶像化をやめて生身の人間として共通性を探ってみると…私たちは結婚となれば大安で行くか、とか、ご祝儀は二枚は良くないな、とか、おみくじ大吉だった、嬉しい、とか、いわゆる「非科学的」なことを当たり前のように日常に取り入れている。
ことに冠婚葬祭とか転居とか、高い買い物となれば、縁起を担ぎたくなる。何となくその方が運を味方につけられる気がするからだ。夢見が良ければ「これは行ける」と思うのもとても自然なこと。
まして次の戦いで死ぬかもしれないという身の上では、私たちなんかの何倍も何十倍も、縁起にあやかりたかったことであろう。悪い夢を見たら、今日は戦いを仕掛けない方が良いかもな…と思いませんか?
「出陣と決められていた日に沙汰がなかった。「どうして出陣しないのか」と訊くと「昨晩悪い夢を見たので今日の合戦を取りやめる」という。びっくりした某は「夢見とか物忌みなどというのは女子供の習わしである。ゆめゆめそのようなことは心にかけないで下さい」と云々」127
気持ちは分かるし、しかしそれを言い出したら何も出来ませんぞ、というのも分かるし、何のことはない、現在の私たちの葛藤や対話とほとんど同じなのである。
縁起を担ぐにはあと二つ理由がある。
1.それぞれの将兵が生死の際で縁起にあやかりたい思っているのだから、大将としては軍の気力を上げるために縁起を担ぐ。そういう心理的効果を狙う面もあった。あの無神論的な織田信長だって、桶狭間の戦いの前では「神様のサインがあったぞ、これは勝てる」と部下を鼓舞した。
2.会議が合意を見ず、対立し合う意見が等しく正論と思える時「じゃ、籤で決めよう」というふうにすると、波風が立たない(個人的には多数決投票より良いと思う)。結果、おみくじになる。
著者はある戦いを取り上げ、
この場合、「おみくじによって戦いを始める日時方角を決めただけでなく、攻め方そのものもおみくじによって決めていた。戦い方までおみくじで決められていたというのは驚きである。その時は引いた紙が白紙だったので、(攻撃は)様子見ということになった」77
私はこういうのを「迷信」とか「合理性の未熟さ」と思わない。人間ってそういうものなのだと思う。かちこちに合理的にやったって、失敗する時は失敗する。おみくじや夢のお告げ通りにやったら大成功してしまうこともある。
こういう本はオカルトに傾倒している人の書くのも良いけれど、オカルトに対して懐疑的な人が書くと(この著者は後者)「それでもこれだけの証拠がある」みたいな感じで説得力があるのが良い。
オカルト寄りだと証拠不十分で暴走する傾向がある。アンチオカルトだと「分かったから話を先に進めてくれ!」みたいな回りくどさがある。バランスが重要。この本は、バランスが程よかった。メーターのど真ん中ではないが、アンチオカルト寄りの許容範囲と言ったところか。
このような側面から戦国時代を垣間見ると、やっぱり人間は変わらないんだなあと思う。「遠い人が近くに感じられる」というのが私的に良書の基準の一つらしい。その意味で、非常に良書であった。