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#171『この世で一番の贈り物』オグ・マンディーノ

 #144の続編となる本書。深い静けさの中で読むことが出来た。著者自身を主人公とし、人間の真の幸福について架空の賢人サイモンと語り合うという形式は同じ。#144の感想文を読み直してみたが、本書の感想もだいたい同じである。
 著者の弱点を先に指摘してしまうと、主題が事前に明らかであるため――あくまでも小説の形で語る自己啓発本なのである――それ以外の箇所は読み飛ばせてしまう。そういう読ませ方だとどうしても読書体験としてはパサパサしたものになりがちである。要点だけ読めば良いということになるので。それは読者の問題ではなく著者の問題である。
 またこれは「弱点」と言おうにも仕方のないことなのだが、著者にして本書の主人公であるオグ・マンディーノの大成功した人物であり、普通一般の人間とは生活の質がまるで違う。そういう人の語る「こういうふうに生きたら良いんだよ」というのは一体どこまで響くのだろうか――物凄く響いたからこそ大変に売れたのだろうが。
 ここには深い問題が潜んでいるのではないかと思う。前提としてオグ・マンディーノの主張は、成功や幸福のために必要なことは、他者への貢献、自己の成長、神および世界への賛美である、といった所。これは自己啓発の大家たちが言ってきたことと同じである。自己啓発は新しい哲学でありまた宗教である。しかも清貧の教えではなく、富が結果としてついてくる。だからこそオグ・マンディーノは恥じらいもなく自分の成功した生活や体験を本の中に綴っている。ちょっと書き過ぎじゃないかなーと私なんかは思う。
 多分私はここに引っかかるのだが、それ以前の古い宗教の神髄は宗教的生活と清貧というものを基本的に同一視していた。これは洋の東西問わずである。だから金満な宗教家はしばしば批判されたし、その肥大した権力ゆえいに政治闘争に巻き込まれたりも(自ら絡んでいったりも)した。つまり人々は心の底では消去法的に分かっていたのである、「本当の聖者は清貧である」と。それはこう言い換えても良い、「本当に力ある者は清貧である」と。「本当に力ある者」は、神に支えられている存在であるがゆえに聖者なのである。こういう宗教的世界観が、物質主義文明繁栄の前夜には、当然であった。
 19世紀後半に興った自己啓発・成功哲学というジャンルは、その生まれた土地アメリカ合衆国の空気を多分に吸って新しいものとなった。それは「本当に力ある者は富をも有する」という考えである。確かにこちらの方がストレートで筋が通っているように感じられる。比較するとむしろ旧時代の「本当に力ある者は清貧である」は矛盾そのものである。
 凄く簡単に言えば「いや、それは矛盾ではない」と思えるのが「大人」であり、「矛盾じゃん」と思うのが「子供」である。アメリカは精神的に子供の国なので旧大陸の清貧思想を自分たちの世界観の骨格とすることは出来なかった。単純明快さを代わりに世界に求めたのである。
 自己啓発の本をいくらか読んだ結果、私は次の結論に至っている。初期の大家たちの教えはまさしく新しい宗教であり、正しい。自己啓発の要諦は「自助と加護」である。自分のこと――つまり自分を育てること、抑制すること、自分で考えること、すべきこと――は自分の責任においてしなさい、そうすれば必ず神様の加護があり、それがあなたに逆境の克服、人格の成長、仕事の成功などをもたらす、というものである。それ以前の宗教はごく一部の教え厳しき人のみがこのようなことを言っていたが、体系的では決してなかったし、個人的主張か、その人の人格の特性が付与された説法に留まった。多くの宗教家は加護のみを語り、自助については語らなかった。
 自助論はイギリスで興った思想だが、それはヨーロッパで最も早く宗教という一種の精神的麻痺の元凶を白日の下にさらして無毒化することに成功したからだ(ヘンリー8世から)。要するに「神様よりも自分次第でしょ」となった。その思想転換が、政治経済軍事においてイギリスを最大の強国に変貌させた。
 ただ自助だけでは人は行き詰ることをアメリカ合衆国は知ったのだ。アメリカ合衆国はまさに自助を突き進めることによって、全国民が銃を所持して自分で自分の身を守る国体を得た訳だが、その当然の代償は諸々の蔓延する社会問題であったことだろう。恐らくイギリスを含む旧大陸では神という精神的束縛が強かったので、どんなに自助と言っても、逆にそれでバランスが良いくらいの話だった。しかしアメリカ合衆国では自助に重きを置き出すと途端に重心が「過剰な自助」に傾き過ぎる結果になったのだろう。それで精神的宗教的復活が必要だった。しかし今更キリスト教を持ち出して対処できる時代状況ではない。そこで自己啓発という新たな混成宗教求められたのだと思う。
 話を戻すと、だから初期の自己啓発の大家たちの言葉はその時代状況における必然性から、確信を突いているように感じられる。しかし今の自己啓発の「コーチ」たちは全然軽薄でほとんど愚者の塊でしかない。彼らの幸福や成功の定義は非常に浅い。そして結果を出すまでに想定している時間も非常に短い。すぐやればぱっと変わる、そんなワンタッチ式の、腱反射的な価値観しかその言葉から見出すことが出来ない。せいぜい生み出せるのは新たな金満経営者たちのみであろう。

 凄く話が長くなっている。以上のことを踏まえるとオグ・マンディーノはやはりある種の成功の階段の高みに位置しており、それを「成功」と考えて疑っていない。勿論、人々を導く本を書き、それが売れたことによる成功なのだから価値ある成功ではあるが、多分、そんな自分には、より貧しい人、弱い人、困窮の淵にある人に語る資格は無いと、心の奥底では分かっていたのではないだろうか。だからこそ無一物で無名の老賢人サイモンを、教え人として彼は登場させたのではないかと思う。
 まあ、そんなことを考えた。ただ、著者は「教え」と「物語」の融合ということに関しては決して上手とは言えない。それゆえに結局、サイモンは著者が、教えという主題を満たすために自分の都合で生み出した登場人物という感を決して払拭することがない。なぜそこに彼がいるのか、彼は実在なのか幻想なのか、彼の博学は本当に自前のものなのかそれともメタ的なものなのか、ということに別に白黒をつける必要は全然ないのだが、それにしても著者の都合が道過ぎている。これは例えて言うなら――新劇場版エヴァンゲリオンのマリである。と今思った。サイモンの死、そしてエンディングも唐突である。
 本を開けば良い言葉が沢山見つかるし、サイモンの言葉は優しく味わい深い知性に彩られている。しかし全体として――人間の精神史の変遷も踏まえて――考えると、変に違和感の残る本である。多分、これはオグ・マンディーノという人そのものにまつわる違和感であり、それはまた同時にアメリカ合衆国の歪な経済発展をその源とする現代世界の物質主義思想そのものに対する違和感でもあると思う。
 日本から、新たなる思想が生まれ出るべきだ。

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