#22☆『リトル・トリー』フォレスト・カーター
自室を改装してアトリエにする際、沢山の本を処分した。その中にこの一冊があった。最近古本屋で見つけて購入した。
素晴らしい、最高に素晴らしい本だった。なぜあの時、私はこの本を売ってしまったのだろうか?若かったのだろう。
自伝だと思って読んでいたが、どうやら「自伝的」であるらしい。しかしいずれにせよその幼少期の濃密な体験が物語全体、そして言葉の端々まで緊密に覆っていて、ひたすら感銘を受ける。
私のような東京生まれ東京育ちの人間がどう逆立ちしたって出て来ないであろう表現。まさにその場所にいて、その音を、その移ろいを日々のこととして体験し続けた人でなければ決して捕らえることの出来ない情景の奥深さ。
そうか、蛙だって息がつけなくなるか…そんなことを思い描いたこともない自分に気付く。それでいて、これがどれほどの雨か実感として想像できる辺りが言葉の不思議である。
これだって、移ろいゆく時の中で山に暮らし、山の中を歩き続けた人からしか出て来ない洞察であろう。この洞察は「鑑賞」ではない。季節に対して「意味づけ」や評価をしているのではないのだ。生命世界の織り成す循環の風景から、自然の呼吸のように認識を獲得している。私は素直に、羨ましいと思った。今からでも遅くはない、こんなふうに人生を世界を体感できる人間になりたいと思った。
アメリカ先住民(と白人の混血)の少年リトル・トリー(Little Tree)は両親死後、山に暮らす祖父母の元に引き取られる。そしてそこで沢山の愛情を受けながら、知恵、技術、逞しさ、優しさ、掟、あらゆることを教わっていく。
祖父母は決して押し付けるように教えない。その交流の根底には愛だけがある。
こんなふうに。
たとえ答えは明らかであっても、それを先回りして教える所に学びはないのだ。そのためにはどれほどの寛容さと信頼が必要だろう。そして教える側にも連綿と受け継がれた知の体系がなくてはならない。「アメリカ先住民もの」の最大の魅力は、やはり何と言ってもその体系の分厚さと奥深さであると思う。それは個人レベルの処世術や人生観とは格が違うものなのだ。
男女の別は自然と役割分担をさせる。祖父がこの物質界での生き方を教えるのに対して、祖母は精神世界での生き方を教える。
私はスピリチュアル系の文脈ではなしにこういう知恵の言葉が語られることに比類のない価値を感じる。なぜならそこには血肉がある。
理解と愛は等しい…言えそうな言葉である。しかし我が身を省みると、全然自分は程遠いと認めざるを得なかった。いつ私はその言葉に心から、体験から、同意できるようになるだろうか。
おばあちゃんは自分の父親を回想してこう言う。
何と深い、そして美しい人生観であろうか。
今回は引用ばかりである。それほど引きたい言葉が沢山ある。
このような生き方、感じ方はもう過ぎ去った日々のものと思える。この物語の時代でさえ、もうか細いものだった。今はどうだろうか?しかし私は逆に今こそ、と思う箇所を読んだ。
今私たちはネットのおかげで離れている家族とも友達とも簡単に連絡が取れる。昔は当然、こうではなかった。だから昔の人はその分、よく想った、というようなことは聞く。しかしその制約は、現代の利便性に比べてどうしても「不足分」を強調しているように思えることが多い。ところが次の一節を読んだ時、むしろ「今よりもっと良い繋がり方」があることを、そしてそのつもりになれば今だってすぐに出来ることがあることを教えられた。
最近、私はますます霊的な道に人生を整理したいと思っている。この本の登場人物たちはまさしくそのように生きている。彼らのその方法は決して「昔だから出来たこと」ではなかった。昔でさえ、出来ない人には出来ず、しかし望む人には出来たことだった。人間とは本来何者であろうか?そしていかに生きるべきなのか?この問いに対する答えを、有難いまでの息遣いの生々しさで示してくれたこの本に心から感謝する。