#36『この国のかたち(1)』司馬遼太郎
面白く、深く読んだ。新しい知見に触れ(私が無知すぎるため司馬遼太郎も今なお「新しい」)、日本を見る目がまた違う角度を得た。
日本史の叙述となると私の中では故渡部昇一氏がいつも真ん中にある。この方にほとんど重要なことは全て教わった。氏はいわゆる愛国保守、右翼に属する。司馬遼太郎はそれほど左右がないと思うが、それでも左翼の方に人気がある。渡部昇一氏に対して左翼には半藤一利氏がいて、言論界は圧倒的に後者贔屓である。本の売り上げ部数が全然違う。左傾化が止まらないこの国では当たり前の現象であるが。
筋金入りの左翼は論外だが、左寄りの言論人が全体の大半を占めているこの日本で、彼らは一般常識的な見解を創出している。彼らからしたら、右翼的な歴史観はナルシシズムと自己美化とご都合主義としか映らない。まあ、その面がなくはない。私だって何から何まで右翼的な歴史観を真に受けたらいいとは思わない。時々、行き過ぎな人もいる。やはりバランスよく食べ物は色々食べた方が良い。
その点で、この本は私の片寄りをいくらか正してくれる、隙間を埋めてくれる有益な視点を提供してくれた。言ってみれば、お漬物、箸休め、お茶。ただそれでも総論としての歴史観において、私の脳内に変換は起きなかった。それがなぜだかを考えてみる。
左翼的、または左翼の人が尊重する歴史観は、結局の所、日本人に勇気を与えないと思う。自己肯定感と言っても良い。一番顕著にその姿勢が出るのは言うまでもなく大東亜戦争である(彼らにとっては太平洋戦争)。
司馬遼太郎氏は「なんて愚かな国だ」と自国について感じたと言うし、半藤氏も同様。それに対して渡部氏は「先人に対して何て酷いことを言うんだ」と憤る。私は後者に共感する。
司馬遼太郎氏は自身が兵卒だった。体験者はやはり、戦争を憎む。これは分かる。それを否定するつもりなんてない。それはあまりにもおこがましい。しかし後世の、戦争を体験していない世代がそれに易々と同調し、「あれは間違いの戦争だった」の一色では日本の将来が不安になる。実際、そのせいで非常に怪しい。
左翼系の歴史認識にはどうも外国・敵国の発想がないようだ。日本が勝手にこけたように語るが、そんなことは世界中のどこでも起きる訳がない。相手との関係、全体の状況を視野に入れないと始まらない。別に被害者ぶろうというのではなく、事実は公平に見た方が良い。
そのように公平になれば、自国を愛する、自国の名分を立てる発想は自然と湧いてきそうなものである。そしてそこから出発して、肯定賛美すべき「日本」はどこから始まったのか…と辿っていくと、古代まで遡る愛国史観となる。自然と。
私はこれは全然悪いことではないと思うのだ。簡単に言って、渡部昇一氏の主張は「古代から現代までずっと日本が好き」で一貫している。そのための情報を選別して語る。言い方は悪いが、都合の悪い情報は無視していることもある。でも私はそれで良いと思う。自国民の蛮行や愚行を学んだからと言って、それで民族が上等になるようにはどうしても思えない。イギリスやアメリカその他の国が力を今なお持っている理由は、彼らが彼らの先祖の失敗を指折り数えて検証し、反省したからだろうか? 否。むしろ一切していない。ただそれが客観的に正しかろうとそうでなかろうと、自国にまだ誇りを持っている――どのようにしてそれを知るのか? 首相や大統領の顔を見れば分かる。「自分の国には正当性がある」という自己認識。それが失墜しない最大の理由だろう。
司馬遼太郎の知見の幅広さと奥深さは確かに素晴らしいと思う。しかし無理な点が一つある。それは「近代までの日本は良かった。近代からの日本はいけない」という分断が起きていることで、それこそが「なぜ、どのように日本はこうなってしまったのか」ということを問う彼の小説の執筆動機になっている。
結局人生観、価値観の問題だと思うが、「何があっても愛し抜く人」もいれば「条件次第で愛せなくなる人」もいる。どちらが良い悪いではないけれど、将来に希望と可能性を残すのは前者以外にあり得ない。「近代以後の日本は良くない」と言った場合、今後もその評価が改まるはずはないのだから(状況を見れば行く末の悪化は不可避)、その人の中で日本はもう終わっている。あくまでも遺物なのである。
司馬遼太郎氏の話を聞いていると既に失われたものにまつわる解説を聞いているようで、何をどうしても、そこで語られる知識を今の自分、将来の世代に繋げることが出来ない。明るい気持ちにならないし、この国を守りたいという気持ちにならないし、この国に生まれて良かったという気持ちにならない。司馬遼太郎が広く読まれ愛されているというのも、やはり問題であると思う…。だからと言って、色々と勉強になるから今後も読ませて頂きたいとは思うのだけれど。愛国的な骨格をしっかり持ってからなら、読むと確かに栄養になる。