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#17『リトル・チルドレン』サローヤン

 大学生の時、ウィリアム・サローヤンの『パパ、ユーアークレイジー』という本を読んだ。それが素晴らしかった。伊丹十三の役が酷かった。「僕は僕のお父さんに、僕のお母さんがこう言ったのを…」みたいな感じで、悉く所有格を訳出する。「あえて試みた」とのことだったが、そんな試みは敢えてせんで宜しい。にもかかわらずそのような酷い翻訳を超えて煌めきが伝わってくる良書だった。
 サンフランシスコに行った時、書店で「サローヤンのこれこれの本、ありますか」と尋ねたけれど、なかった。「サローヤン」の発音の仕方が分からなかったので二度三度言い直したのを覚えている。
 それっきりその本は読んでいない。伊丹十三訳でもう一度読みたいとは思わない。今はネットもあるのだから、原著を買おうかなと今朝思い付いた。本当に時代が変わった。あの頃はそんな買い方はなかったのだから。

 サローヤンはそんな訳で私の中で記憶に残る作家だったけれど、他の本は何か一冊読んだくらいでそれきりだった。最近『ヒューマンコメディ』を読んで、なかなか良いと思った。『パパ…』を超えはしないが。
 そして昨日『リトル・チルドレン』を読み終わった。本当に短い、短編というか掌編を集めた本である。読みながら既視感があるなと思った。ロバート・ニュートン・ペックの『豚の死なない日』だった。
 あれは良い本だった。一昨年辺り再読し、途中でやめてしまったけれど良い小説だった。サローヤンの人間観は確実に受け継がれていると思うのである。そしてそれはアメリカ文学に特有のある色調であると思う。それについてベッドの中で色々考えていた。

 簡単に言うとそれは、素朴で善良、ということに尽きるのだろうか。無学でお金もない、でも善良でよく働く(そしてよく騙される)という人間がアメリカ文学の、少なくともある時期、ある領域における典型的な人格かと思うのだが、サローヤンはまさしくそういう人物像を好んで描く。そしてそれは読んでいるこちらを懐かしく優しい気持ちにさせる。
 詳しく対比するほど記憶にないのだけれど、ヨーロッパの文学でこのやり方はない気がする。何と言うか、もっと時間や空間や慣習や過去に縛られている感じがする。アメリカ文学の方はとにかく自由で、人間関係も今から一から作っていく、気持ち次第でどうにでもなれる、という雰囲気が漂っている。それはいわゆるアメリカの空気感と勿論一致しているのだけれど。

「どこへ行くの」彼が訊いた。
「ポートランドへ」僕が言った。
「一体ポートランドで何をやるの?」
「知らないよ」
「何かあったのかい」
「たった今仕事を辞めたんだ」
「何で辞めたんだ?」
「好きじゃなかったからさ」
「おまえ、気でも狂ったのかい」
「全然気なんて狂ってないさ」247

 なぜ彼が仕事を辞めたのかと言うと、雇用主がもう一人の被雇用者である初老の女性を解雇しようとしたからだ。彼は彼女の仕事を奪いたくなかった。それで自分が先に仕事を辞めて、彼女が残れるようにしたのである。アメリカという生存空間が与えてくれる「自由」は、ある種の人には無限の優しさと無私の心を持つことを可能にしてくれる。
 そんな雰囲気が好きで、学生時代にはアメリカ文学をヨーロッパ文学より贔屓していた。しかし人間、年を取るとアメリカ的価値に懐疑的になる(人は多いと思う)。今回『リトル・チルドレン』を読んでいても「何だろうなあ、これは…」ともう一つ頭で思っている自分がずっといた。
 それで『くまのプーさん』を思い出した。アメリカ文学の源流というか原型がここにある気がしたのである。プー横丁ではカンガルーの親子、カンガとルー坊を除いて、一種族につき一体である(ウサギの親類は固有名詞を与えられていないので除く)。つまり、くま=プー、ぶた=コブタ、ふくろう=フクロ、人間=クリストファーロビン、という感じである。それで共存している。仲の良いのもいるけれど、すっかり分かり合えるということはない。しかしそれについて不満を持っているのは一部で、しかもそんなに思い詰めるほどのことでもなく、何となく平和的に「あの人は仕方ない、ああいう考え方だから。まあ、それでも上手くやっていこう」みたいな合意が暗黙に共有されている。みんなイーヨーを暗い奴だと思っている。でもイーヨーを変えようとはしない。喜ばせてあげようとする。それで喜ばなくてもあまり気にしない。イーヨーも、人生に喜びが少ないことに不満は持ちつつ、喜ばせてもらえる時には割と素直に喜ぶ。

 つまりプー横丁では、他人とは分かり合えない前提で、他人と共有できない部分はあえて直視しないことにして、楽観的平和的に生活を営んでいる。これはプーが生まれたイギリスではファンタジーになったけれど、移民国家のアメリカでは現実になったのだと思う。そうでもしないとそもそも話が始まらないから。
 サローヤンの小説でも沢山の人種が出てくる。アルメニア人、メキシコ人、ユダヤ人、ギリシャ人、などなど。だいたい彼は好んで弱い立場の人種を書く。アングロサクソン系やフランス人は出てこない。出てくるとしても言及されず、たぶん同窓の嫌な奴とか雇用主としての役割があてがわれているだけ。つまり共感の対象ではないのである。
 彼らはきちんとした暮らしや生活習慣や経済水準を通して互いに共有できるものを分厚く持っているのだろう。一方、弱小の人々は互いの足りない所や暗い所には目を瞑って、非難より寛容によって、完全な理解より部分的な肯定によって、相互の関係を成り立たせている。それがあのほのぼのと牧歌的な明るさや健気さの源なのだな、と思ったりした。
 ただ一方でそれはいかんせん浅いものになることを定められてもいる。アメリカの精神世界はどうにも浅い、と年を重ねるごとに思うが、それはやはり「テーブルの下は見ないで、テーブルの上を見て楽しもう、それで良いことにしようよ」という建国以来の精神的傾向が、人間関係の質も皮相にしてしまったということだと思う。映画なんかでも(もうずっと観ていないから記憶のある範囲だけれど)、人と人が分かり合う、というカタルシスに設定されている基準線が低いのである。「えええ、それで和解!?」みたいにたまげることがよくあった。プー横丁では成立しても、人間世界でそれだと、またすぐに揉め始めるのだろうと思えて不安になる。
 アメリカ人はテンションが高いしよく頑張る。先日もアメリカに嫁いだ私の旧友が、アメリカの人間関係の皮相さ(しかし質が低いとよくあるように、量だけは異様に多い)に精神が参ってしまって、泣きながら電話してきた。「どうしてこんなに夫の交友関係と付き合わないといけないの?もう嫌…」と。日本人は質が深ければ量は少なくて良い、という価値観を生まれ持っているのだな、と改めて感じた。質がないのに量だけ多いのは、彼女が言うように拷問なのである。

 サローヤンの時代、そして先程挙げた『豚の死なない日』も古き良き時代を書いたものだけれど、その時代には、その「テーブルの下は見ない」人間関係が肯定的楽天的に働いていた最後の時代なのだろうと思う。現代においては何の理由によってかは知らないけれどそれが通用しなくなって、いたずらに皮相的で、見るべき陰りを見ようともしない痛々しい頑張りに変わっているのだろうな、と思ったりした。

 ちなみに本書の訳は良いとも悪いともないが、「文学作品・縦書き」という形式においてアラビア数字を平然と使うのはどうも読んでいて気が散る。言語感覚が弱いとしか思えない。慣例的にも妥当性がない。編集者は何をしていたのだろうか。

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