![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/148193119/rectangle_large_type_2_a378b31a8f260bf2db5dd150ce12feb4.jpeg?width=1200)
石造りの迷宮 第七話
第七話
百貨店では、予約したおせちの重箱を持って歩く人の群れと、店舗に貼られた新年に向けてのポスターのインクの匂いから、君はこの日が大晦日だということを思い出す。スポーツ用品店には客は立ち止まらず通り過ぎるだけなので、君は午後から催事場へと出向になる。
そこは、この日何度も見てきたおせちの受け渡し会場だった。細長いテーブルの前に列を成したお客から予約票を受け取る。君は、テーブルの背後にある紅白の幕を捲り、中にいる係の者に予約票に書いてある商品名を読み上げる。
背中を向けていた女性が振り返ると、以前君を起こしてくれた片桐だった。彼女はにこやかに「礼田君どう? 仕事は慣れた?」と訊きながら、君に指定されたお重を渡す。
「必ずお客様に中身を見せて、間違いがない事を確認するのよ」
仕事前に他の従業員に言われた注意事項を彼女にも繰り返される。
言われた通りにすると、客の顔が嬉しそうに輝いているのを目にする。きっと家族と食べるのだろう。君は、恋人とは何の約束もしていなかったことを思い浮かべる。酒が好きだから正月には飲むのかな? それともおせちをどこからか調達してくるのだろうか。考えているうちに、彼女と結婚し、次々と猫を飼う未来を想像する。この前は彼女に思われているだけで幸せなような気がしたが、やはり変だ。それに何日も百貨店の外の世界がどうなっているのかわからない。
こんな生活は異常だ。列に並ぶ中年の主婦やサラリーマン風の男性を見ているうちに、そんな思いが膨らんでくる。君はまだ、百貨店に閉じ込められているとはいえ、誰かに捕まっているわけではないと言い聞かせる。そうだ、営業時間中に、ここを抜け出せばいいのだ。後で戻った時に、買い物に出かけていましたと謝ればよい。そう想像しただけで、脱出作戦は上手く行きそうな予感がして、君の心臓は興奮で高鳴っている。計画を頭の中で練りながら仕事をしていると、何度も伝票を受け取るのを忘れたり、お重を別のお客さんに渡しそうになったりして、冷や汗をかくだろう。
チャンスは思ったより早くやってきた。催事場での仕事が暇になってきたので、八階レストランフロアの鰻屋へ行くよう指示されたのだ。それは遅い昼食の一時間休憩を取らせようという片桐の配慮もあっただろう。
五階にいったん降りて、いつも寝泊まりしているインテリアフロアにある在庫用の棚から君のリュックを取り出すと、それを目立たないように脇に抱えて八階まで階段をひたすら登って行く。そして八階トイレの備品置き場に荷物を隠すと、鰻屋に顔を出した。
主の福盛は君を見るなり嬉しそうな顔をして「まず食え。端の席で悪いけどよ」とカウンターの脇にある小さなテーブルに呼び寄せる。ご飯を大盛に持って鰻が丼から浮き上がっている昼食を差し出されて、困惑するだろう。何しろ、これからこの主を騙して外に出ないといけないのだから。食欲は湧かず、箸も鈍りがちだった。主の奥さんは君に茶のお代わりを淹れつつ、うちにもこんな息子がいたらねえ、と主人に向かって笑ってみせた。主は、
「馬鹿言え、男なんて大変だぞ。飯食わせて学校に行かせて仕事を教えて……、あ、女でも同じようなもんか」
と、笑った。彼は更に目を細めて着物姿に妻に言う。
「でもよお、後継ぎがいたら、俺ももうちょっとやりがいがあっただろうになあ」
君はカウンターの主と、君のテーブルの前に立っている奥さんのとの間で、気まずさをおぼえる。しかし、怪しまれてはならないので、一生懸命箸を動かしている。鰻の甘いたれも、ふわっとした鰻の香りも、この日ばかりは重く飲み込み辛いものに思えた。心の中で、少し出るだけですから、すぐに戻りますからと二人に謝りながらご飯を口に運ぶ。
まだゆっくり休んでいいと主が言うのも聞かず、君は食べ終えた重箱と椀をカウンターの内側へ持っていくと、シンクに溜まっていた食器を片端から洗い始める。
「お客は少ないから急がなくていいわよ」
奥さんが客席の方から顔を覗かして言うが、君は泡立てたスポンジで鰻の脂のついた食器を懸命に擦っている。主は、早く吸いに行きたいのか、火のついていない煙草を手に持ったまま、横から話しかけてくる。
「なあ、礼田君、ゆっくりしようや。人生急いだって良い事ないぞ。俺も煙草休憩行くからさ。お客が来たら呼んでくれよ」
「どうぞ、呼びに行きますから安心して下さい」
君はごしごしと手に力を込める。主は二三歩歩きかけて立ち止まり、妻が離れた客席に座っているのを見てから引き返して、君の真横に立つ。
「どうしました? 支配人が見えたら呼びますから」
怪訝な顔をした君に、主は苦笑いを浮かべた後、しんみりとした調子で言った。
「誰にも言うなよ。ここだけの話な」
君は黙って頷く。彼は席に座って伝票を整理している妻を、もう一度見てから言った。
「俺、女房にやっと謝って仲直りしたんだよ」
「喧嘩でもしていたんですか?」
「いや、そうじゃなくて。俺って、店の事しか頭になくてよ。あいつが病気をしていたのに気づかなかったんだよ」
君は、鼻歌交じりに伝票を数えている男の妻に目を向ける。
「病気だったんですか? 今は、すっかりお元気そうで」
主は静かに首を振る。
「遅かったんだよ。何もかも……な」
そう言われたが、和服の彼女は顔色も良く、ふくよかに見える。しかし、本当に深刻な病だとしたら、これ以上そうは見えないなどと言うのは失礼にあたると考える。そこで、福盛の言葉を待つことにする。水の勢いを止めて布巾で重箱を拭きながら、耳を澄ませる。
「礼田君、仕事を言い訳に家の事を後回しにしたらいかんよ。俺は、やっとあいつに許してもらったけど、……それは嬉しいんだがよ、……もっと早くにあいつの異変に気がついていたらな。なあ……あのかつ丼屋の娘と一緒になるのかい? 大事にしなよ」
誰がそんな事を喋ったのかと驚いたが、一緒に泊まっている事は否定できないように感じている。そこで「先のことは何も決まっていません」とだけ言う。主はハハと笑う。
「やっぱりつき合ってたんだな。いいよ、いいよ。若いうちはいろんな女の子を見ておくのもいい。でも、あの娘、きっといい子だぞ。個性的というか、変わっているところはありそうだがな」
そう言うと、外に出て行った。きっとタバコを吸いに出たのだろう。君は洗い物を急いで終えると、閉店前のように重箱と椀、湯呑を棚に並べる。テーブルも回って、布巾で丁寧に汚れを落とす。奥さんが「いいわよ、ゆっくりで」と声をかけてきたが、これから仕事に穴を空けるやましさのせいで、机を拭く手に力が入っている。君は、床にモップを駆けながら着物姿の奥さんをまた見つめる。主の言葉を思い返してみると、確かに顔色が少し良くないように見える。しかし、それは化粧のせいかもしれない。それに、手はマシュマロのようにふっくらとしていて、襟からのぞく首にもうっすらと肉がついていた。健康そのものじゃないか? 君は恋人のやせぎすな体を思い出す。うっかり手を乗せたら折れてしまうんじゃないかという、肋骨に皮の貼りついた胸。どちらが病気かと尋ねられたら、鹿島だと君は答えるだろう。
主が服から煙草の臭いをさせて戻って来た。君はここぞとばかりに口を開く。
「すみません、ちょっとトイレに……」
「ああ、いいよ」
彼はニコチンでリラックスした調子で返答する。
「それと、トイレのついでにちょっと休憩してきても?」
主は、眉を少し上げたが、すぐに「いいよ」と送り出してくれるだろう。
店の間にある通路を抜けて角を曲がり、鰻屋が見えなくなると、すぐに早足になってトイレに向かう。用具入れのリュックは幸いにも誰にも触られずにすんだように見える。それを取って個室に入り、急いでいるのと緊張で激しくなった息を整える間も惜しんで、紺の前掛けを外し、ズボンを履き替える。個室を出て手洗いの水道で鏡を見る。知らない人が見たらただの客に見える。そう確信する。
トイレを出て左右を見る。主やおかみ、支配人などの関係者の姿は見えず、客らしきお年寄りが二人連れで楽しげに歩いている。君は斜め前方にある非常階段への扉をそっと開け、降り始める。古びて壁に薄汚れた何かの跡がある階段は、もう何度も昇り降りを繰り返しているので、下を向かなくて軽やかなリズムで駆け降りることができる。二度と戻らないかもしれない。君はふとそんな思いに捉われ、階段に触れた足裏の感触さえ愛おしくなる。しかし、動かした足は決して重くならず、自動的に動いているようだ。タ、タ、タン。段々と息が上がってくるが、誰かに聞かれて怪しまれないよう、呼吸をなるべく細く小さくして、一秒でも早く一階へ辿り着くことを願っている。
二階の出口を示す表示が仄暗い非常灯に照らされて浮かび上がっている。出口の一階はもうすぐだ。不思議なことにそこからの階段は細く長く続いていた。待ち焦がれていた外へ続く出口への期待で胸を膨らませているせいか、何度冷たくて重い足音を響かせても、一階の表示が見えてこない。途方もなく長い間、降り続けて足の筋肉が倦怠感を訴え始めた頃、ようやく非常口の灯が見えてきた。表示は……地下一階。
通り過ぎたのだ。休憩で少し出て早く職場に戻ろうと思っていたのに、なんて迂闊なことを。自分に腹を立てながら、来た道を戻ることにする。先程よりもずっと重くなったふくらはぎ。しかし出口はもうすぐなのだ。頑張れ、外に出たらマッサージコーナーでも探そうか? いや、百貨店内で夜に借りれば無料だ。使い方を鹿島に訊こう。君はいつの間にかそこから逃げ出すことから外の世界を垣間見ることに、目的がすり替わっていることにも気づいていない。
外に出るんだ。外の空気を吸って……それで? 何をすべきかと言う疑問を頭から振り払い、注意深く非常口の灯りを探して、さっきよりも長く思える階段を上がって行く。
途方もなく長い間足を上げ続けた後、見えてきたのは一階ではなく二階を示す非常口だった。もうこの時点で、今日外に行くのをやめようかという気になってくる。しかし、鰻屋の目を欺いて抜けて来た手前、次回以降はそれが難しいという予感に捉われる。はっきりと断言できるわけではないが、君はある考えにまとわりつかれている。
百貨店は、君が出て行けないようにしているのではないか? 恋人までグルだとは思いたくもないし、その可能性も低いだろうが、百貨店のスタッフの一部もしくはほとんど全員が君をここへ閉じ込めようとしているのでは? それは偏執狂的だとも思えるが、なぜ閉店と同時に出られなくなったのかという考えにひとつの回答を与えてくれる。もし、従業員たちが君を監視しているのであれば、今日脱出できなければ、一生ここから出られない。そんな風に考える。
こうなったら二階からエスカレーターに乗ろう。捕まえに来たら大声を出して暴れればいい。そうなれば、お客も大勢いて混乱するだろうから、全力で走ればきっと追手を振り切ることができるだろう。そう考え二階へ続く厚い非常扉を開けた。
久し振りに浴びる照明。その眩しさで頭がクラクラして、しばらく手を額の上にかざして目をしばたたかせる。目が慣れてくると、クリーム色の婦人用コートや、紫色の長袖カットソーが目に入ってくる。何日も百貨店で過ごしていたのに、初めて見た光景だった。そこは、婦人服売り場だった。
このフロアを歩いているのは女性ばかりなので、君は目立っているのではないかと気がかりだ。大晦日に相応しくないような、薄い黄色で中が透けて見えるような服を着た女性店員と目が合い、彼女は「いらっしゃいませ」と客になる可能性が皆無であるのにうやうやしく頭を下げる。どうやら捕まる危険はないようだ。
君は例の偏執狂的な考えが根拠のないものであると思い直すと、このまま一階へ降りてしまおうと決意する。エスカレーターはどこだ? 早足でコートが並ぶ店舗の前をそそくさと抜けて角を曲がる。すると、エスカレーターが見えてきた。しめた。君は大股でまだ売り出し前の布を被った福袋の山を横目に見ながら、赤い手擦りの傍へ行く。それは上に向かってステップが上昇していた。その隣には……。
エスカレーターは一基だけだった。
君は慌てて昇りのエスカレーターの乗り口とは反対側に回り込む。しかし、そこは三階からの降り口が一か所あるだけで、やはり一階へ降りるエスカレーターが見つからない。そこで、周囲をくまなく探すことにした。婦人用の傘やハンカチの売り場を通り抜け、隅々までエスカレーターを探したが、さっき見かけたもの以外は見つらない。
焦っていた君は、先程のエスカレーターまで戻り、その近くの小さなカウンターで、緑の帽子と制服と着て佇んでいる案内係の女性に声をかけることにする。ひょっとして、自分が従業員だとバレることはないだろうかと内心ドキドキしながら近づいて行く。
「す、すみません。一階に行くには……」
女性は最初、反射的に微笑を浮かべたが、君の質問を聞くと首を少し傾げ、目を大きく見開いた。
「お客様、どうして一階にいらっしゃりたいのですか?」
その返答に面食らってしまう。どうしてって、入ったら出るのが当然じゃないか。少し憤りを感じるだろう。
「いや、だって帰れないじゃないですか」
そんな事を答える義務はないという言葉を飲み込んで、憮然とした表情で女性を見つめ返す。黒く襟まで届きそうな艶のある髪、涙袋がぷっくりとした印象的な目、高く真っ直ぐな鼻筋、それぞれのパーツの美しさに見とれながら、こんな綺麗な人がどうしてこんな事を言うのだろうかと不思議に思う。
彼女は微笑を作り直して尋ねた。
「本当にここからお出になりたいのでしょうか?」
禅問答のような尋ね方に君は再び驚かされる。本当に出たい? 当り前じゃないか。でも、どうして当たり前なのだろう。いや、彼女のペースに巻き込まれてはいけない。君は相手が聞き取れなかったのではと心配して、声を大きくする。
「自由に外に出るのがいけないっていうのかい? 外で買い物をして、映画を観て、仕事をして、ご飯を食べるのがそんなにいけないのかい? 自分の意志で広い世界に出て行くことは間違っているのかな?」
彼女は少し悲しそうに目を伏せた。
「それは、正しいとか間違っているということではございません。私どもにはわかりかねます。しかし、残念ですわ。あなた様はここで生きる資格があるというのに、自らその権利を捨ててしまわれるのですね」
その言葉に頭が混乱する。ここで働くということは、それほど光栄なことなのだろうか? そもそも彼女は、君が従業員だということに気づいているのだろうか? そこを尋ねたくなったが、まずは出て行くことが先決という判断をした。しかし、その前にどうしても確認したくなった。
「この百貨店に入るには、資格が要るのかい?」
彼女は目を上げて再び微笑む。
「ええ……、それは選ばれた方にしか得られない貴重な資格ですよ。誰もが羨みます」
そう言われると、無理に一階へ行くことに迷いが出てくる。
案内係は、まるで君の事を一番に心配している人間のような愁いを帯びた目で見つめてくる。
「一階へはエレベーターがございます。営業時間中は各階へと停まります」
君は、彼女が五本指を揃えて示す先を見る。一基のエレベーターが待っているように大きく口を開けている。
「これまで、このような形で百貨店から出て行った方はいらっしゃいません。そこのところをよく考えてお乗りください。ここで得られた仕事、生活、安寧は外では得ることが難しいです。では、お気をつけて」
小さく頭を下げて、引き寄せられるように扉が開いたままのエレベーターに乗り込む。いったん閉じた扉は一階に着くと再び開く。一斉に乗り込んでくるお客たちの流れに押されないよう、懸命に体をよじって外に出る。
見覚えのある高級ブランドのブティックがあった。君の給料何十日分もするような革製のバッグ。把手には金色の装飾がされている。そのバッグの近くにも人が溢れ、体を何度も横向きにして、人と人の間をすり抜ける。もう少しで出口だ。君は、見覚えのある宝石店の奥に、外との境界にあたる重そうな扉を目にする。君がそこに着く頃には、両開きの扉は大きく開いているだろう。魔法のように開いた扉を前に戸惑ってしまう。
ここを出たら資格を失う? この親切な職場も、安くて美味な食事も、快適なベッドも、可愛らしい猫も、そしてかりそめの恋人も……。君は、開いた扉を前に動けなくなる。鹿島にさよならも言ってないじゃないか、これでいいのか? しかし、本物の恋人じゃない人間に義理立てしなくても……、いや。それでも彼女は君に親切にしてくれたことが思い出される。ワイン、行楽弁当、そして……。
足が凍りついたようになった。更に、外の世界で起こるだろう辛い現実が頭の中に浮かんできた。もう君には帰る家はないのだ。あてにできる人も家族もいない。これまでの給料として現金がいくらかあるが、正月はまず日雇いの仕事にありつけないだろう。仕事も家もない状態で一週間近くを過ごさねばならない。
君は直前になって踵を返し、エレベーターに乗り八階へと向かった。
夜、五階のフロアでテレビを二人で見ている。ベッドで寝転がる君と鹿島の間には、白い猫コトラが欠伸をしている。テレビは恋人がどこからか持ってきてコンセントに繋いでくれた。傍のテーブルには空になったプラスチックの丼が置いてある。テレビは紅白歌合戦を放送しており、何十人もの女の子が一団に固まり、曲の紹介を笑顔で受け流している。
君は音量を控えめにして、それらの娘を見るともなく見て、ぼんやりとしている。頭の中では、もし今日出て行ったら二度と会えなくなるかもしれない隣の彼女のことを考えている。彼女の事が好きなのかどうか判明しないまま、親しみだけは十分に持っていると自覚する。
しかし、親しいがゆえに、今日黙って出て行こうとしたことを話す気にもなれず、ぼんやりと考えている。
「……ねえ……ねえってば」
いつの間にか、鹿島が君の脇腹をつついて呼びかけている。
「さっきから返事をしてくれないんだもん。怒っているの?」
「いや、ぼんやりしてた。どうした?」
「今出ているこの娘たち、誰が誰だかわかる?」
君は、皆同じ赤と黒のギンガムチェック柄のジャケットとスカートに頭にリボンの出で立ちの女の子を見比べるが、髪の色が少し違うくらいで、区別がつかない。
「いや、僕、アイドルはわからないから。鹿島はわかるの?」
彼女は小さく首を振る。
「わかんないよねえ。この中の誰かが結婚してやめても、新しく別の人が加入しても、気づかないんだろうね」
曲は流れ、画面の向こうの少女たちは、顔を輝かせて踊り、歌う。
「そもそもこのグループの名前さえも、たった今になるまで知らなかった」
君は年に一度、必ず紅白を見るが、その度に「こんな人が、人気なんだ」と驚き感心している。昨年はネットカフェのテレビで見ていたが、今年は百貨店の使い切れないほどの空間に自分たちの周囲にだけ眩い照明をつけて、贅沢な気分でいられるのが不思議だと思っている。
「私もよ」鹿島が横になっている君の腰に、後ろから手を回して言う。
「私、youtuberしかわからないから。テレビって小さい頃は見るのが当たり前だったのに、見なくなる生活に慣れちゃうと、本当に見なくなるのねえ」
「アイドルなんて、次から次へと出てくるんだから、知っていても仕方がないよ。それにもし知っていたとしても、どうせ会えない。あの人達は箱の外にいるんだから」
君は少し投げ遣りな言い方だったかなと反省する。予想通り、鹿島は君の背中を跨ぐようにして顔を覗かせ、不安そうに言う。
「箱ってデパートの事?」
「ああ、そうだよ」
嘘をつくのも変だと思い、正直に言う。
「ここから出られないのが嫌なのね。私が気に入らない?」
君は即座に首を振る。
「嫌じゃないよ。鹿島は優しいし……。でも……」
彼女はテレビを見るのをやめて、仰向けになった君の胸に、手と頭を乗せてくる。重さで息が苦しくなるが、体の位置をずらせば気にならない。
「でも、なあに?」
「世界がここだけだと、狭いなあって」
君は言葉を選んでいる。しかし、彼女はその慎重さをも破壊するだろう。
「それって、私以外の色々な女の子に会いたいって事? 外に出て、あのアイドルに会いに行ったりするみたいに」
少し困ったような、それでいてそれを冗談で済ませようとするような声のトーンに、君は安心する。大晦日に喧嘩などしたくない。
「いいじゃん、ここから出て行ってみれば。きっと出る方法があるはずよ。私は、ここが気に入っているから居るだけ。君にも遭えたし」
少しの間、沈黙が流れる。テレビの音声は、男性のアイドルグループの若くて高い声に替わっていた。
「実はさ、出て行こうとしたんだ、今日。そしたら……」
君は案内係との会話をかいつまんで鹿島に説明する。彼女はそれほど関心を持たないだろう。ずっと鹿島はここに居るつもりらしい。どうしてここから出ようとも思わなくなったのか、君には不思議に思うだろう。
「それで、出て行かなかったのね。嬉しい。それって、出て行っても同じだと気づいたからじゃないの?」
そう、彼女が言った。
「同じ? ここの中と外の世界は違うよ」
君は、少しだけ首を傾げて尋ねる。彼女は君の体を圧迫するのをやめ、隣に座ってサイドテーブルに置いてあったマニキュアを取ると、体を丸めて足先を塗り始める。
「同じだよ、外に出ても。君も私も限られた人としか会わないだろうし。さっきのアイドル達にだって会えないよ」
「会えるよ。ライブハウスとかに行けば。向こうだって、ファンに直接来てもらいたいだろうし」
反論してみるが、元々歌手などに興味を持たない君は、本当に会いには行かないだろうなと考える。そのことを見透かされているのかと思い、訊いた。
「僕が、コンサートに行かないって意味?」
彼女は足の親指を深紅で綺麗に塗り終えると、満足そうな顔をした。その爪は濃く光沢のある色を放っている。
「違うよ。ライブハウスに行っても、会ったことにはならないの。お互い、居ても居なくてもどうでもいい存在だもん。君はせいぜいチケットを買った客の一人として認知されるだけ。君だって、山ほどもいる芸能人のグループを見たという記憶が残るだけだよ」
「冷めているね、そんな風に考えるなんて」
君は、鹿島の発言に呆れたように言うが、彼女はネイルブラシの先端を画面の着物姿の男性歌手に向けて言う。
「画面で見るか、会場の見えないスクリーン越しに見るかの違いだよ。直に触れることもつき合うこともまずないでしょう? ファンはそれを夢見ているかもしれないけれど。あの人達は、早い話が実在しないの。二次元と同じね」
「いや、それは言い過ぎじゃないか?」
君は、芸能人の味方をするつもりはないが、彼女の思考が余りにも歪んでいると感じたので口を挟んだ。
「地下アイドルとつき合ったって話は聞くし、芸能人と結婚した一般の人だっているわけだろう? 勿論、確率は低いかもしれないけれど、二次元と触れ合える可能性がゼロだというのとは違うじゃないか。ゼロとゼロじゃないものを一緒にしちゃいけないと思うな」
彼女は片手で君の手を取り、もう片方の手で君の手にマニキュアを塗ろうとする。それを慌てて引っ込める君を見て笑うだろう。
「それでも、二次元なのよ。テレビに映る人と運良く結婚できたとして、その人がテレビのままのキャラクターでいると思う? テレビではその人がキッチンドリンカーだったり、車で轢き逃げや当て逃げをしたり、ホストクラブで豪遊したりしているなんて見せないでしょう? 芸能人というのはね、カメラが回ると与えられた役割を演じていて、それは実際の人物とは違うの。そして、ファンや、ただの偶然で見ている人は、どこにも存在しないキャラを楽しんでいるだけなの」
それを聞いて、鹿島の話にも一理あると思うだろう。確かにドラマの中のキャラクターがそのまま本人の性格だと信じる人はない。それと同じようにテレビのトーク番組やドキュメンタリー番組で見せる芸能人の顔も、所詮、好感度を上げるために外向きに見せているものだ。でも、待てよ。君はもう一段深く考える。
それって芸能人でもない僕らにも言えることじゃないだろうか? 自分たちだって、人と対峙する時は、いい所しか見せないではないか。人は皆、仮面を被って生きている。仮面と仮面が出会い、その表面に見える性格だけを頼りにつき合い、言動を信用する。だとすると、この鹿島の笑顔も偽だというのだろうか? 君はそのことを鹿島に打ち明けてみる。彼女はにべもなく言うだろう。
「人は様々な顔の面を持っているの。そりゃ好きな人の前では可愛く振舞ったり、偉い人の前では畏まったりするわよ。でもそれはプロデュースして作り上げた人物ではなく、色々な顔の面のひとつを見せているだけ。だから、礼田君には私が二次元だと思う必要はないのよ」
君は、そのようなものかと感心するが、上手く丸め込まれたようにも感じる。
「色々な女の子に会いたいって訊いた時、顔が赤くなったよね」
鹿島は、君の頬を人差し指で軽く突きながら言う。
「ほら……、そんな……、女の子と遊びたいという意味じゃ」
しどろもどろになって答える。しかし、予想に反して、彼女は怒ったり悲しんだりしなかった。そして、子どもを諭すような口調になる。
「一見、ここは狭い世界だから、彼女を選べないなんて残念、と思っているでしょう? ところが、この百貨店の中にも、私ほどじゃないけど可愛い子だっているのよ。知っているでしょう?」
「鹿島は美人だと思うよ」
君は、その言葉が虚しく響くのを感じる。嘘をついたつもりはないが、どうやら、このタイミングで選ぶ言葉ではないようだ。
「二階の案内係の人、綺麗だった? ここにだって君が選ぼうと思えば、選べるのよ、彼女を。向こうが礼田君を好きになるかどうかは知らないけどね」
鹿島は、一本また一本と自分の足先にネイルを塗ってゆく。血よりも深く赤い色。それは新年を迎えるからなのか、単に明日お店が休みで暇だからなのか。
「外に出たらもっと出会いがあると思うでしょう? ところがそうでもないんだよ。百貨店の外で女の子が沢山いても、つき合えるのはひとりだけ」
テレビでは、紅白歌合戦の集計が始まろうとしている。それをちらと見てから、「そりゃそうだよ。僕はひとりしかいないんだから。でも、ひとりで何人もの女の人と恋愛関係になる男はいるよ。女でも……。君はそれをつけ加えようかと思ったが、わざわざ鹿島に不快な思いをさせることはないと思いとどまる。
「選択肢が沢山あるとねえ、かえって選べなくなるのよ」
彼女は、そう言って君の手のひらを噛む。力は入っていないので痛くはないが、怒らせたら痛い思いをするだろうなと考える。
「選択肢って多い方が幸せじゃないの?」
君は、首を傾げて尋ねる。もし自分だけ、何百、何千もの中から恋人を選べるとしたら……。
「ジャムを売るという実験を、アメリカの偉い先生がしたんだって。あ、これ、支配人の受け売りね。ジャムを四種類だけ――中身は知らないけど、イチゴやキウイ、マーマレードにブルーベリーかもね――並べている売り場と、二十種類並べている売り場を比べたら、四種類の方が売り上げ高くて、お客さんの満足度も高かったんだって。これで言いたい事がわかるでしょう?」
君は黙って、選ぶものが多すぎる人生を想像してみる。学校は、成績が悪くて選べなかった。職場はいつもできる仕事が限られていた。友達だって選んだことはない。恋人だって、バイト先でたまたま一緒だった人か、返信の来ないマッチングアプリで気まぐれに返信をくれた人とつき合っただけだ。そして、今の恋人と呼んでいいかどうか微妙な相手も、とんかつ屋でお釣りをもらったことがきっかけに過ぎない。同じ百貨店に棲みつく者同士、いや、閉じ込められた者同士というべきか。とにかく、自分で大勢の中から選んだものではない。もし、多くの選択肢から選べるのだったら、どんなにいいだろう。君は単純に考えていた。そこで鹿島に冷や水を浴びせられたのだ。選択肢が多くて満足しないなんて、贅沢だ。そう思ったが、百貨店の中に居ては、彼女の言う事が正しいのかどうか検証しようもない。
「ああ、外に出られなかったから、拗ねているのね。一度出て行ってみれば良かったのに」
彼女は、悪戯っぽい目で、からかうように言う。鹿島の事が気になって出て行けなかったのに、その言い草はないだろう。その言葉をぐっと飲み込む。しかし、彼女は君のそんな心を見透かしたかのように言う。
「だったらさ、今度二人で示し合わせてここを出ましょうよ。きっと外の世界に行っても、礼田君は私の恋人でいてくれると思うな。約束よ」
彼女は頬を赤らめた。その言葉にどう返事をしたらいいのかわからず、何も言えない。しかし、二人で抜け出そうという考えは悪くないように思えた。その返事をする代わりに君は、「除夜の鐘が始まったね」と話題を逸らしてみる。すると、彼女は「私とじゃ嫌なの?」と頬を膨らませて怒ったふりをした。
テレビでは、北陸の寺がゴーンと荘厳な鐘の音を響かせている。鹿島は、君の目をみつめて
「今年もよろしく。まずは明後日の初売り、頑張ろうね」
と言い、唇を突き出してきた。君はそれに逆らわなかった。
第六話へ戻る 第八話へつづく