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石造りの迷宮 第六話

     

     第六話


 この日も、君は外に出られなかった。いや、出ようとする気が起きなかった。毎日、彼女から渡される百貨店の日給は封筒に入っていて、その数が増し、しまいには通りすがりのフロアマネージャーの那由多から
「毎日のことだから、空の袋は返却してくれ」
 と言われる始末だった。彼の口調は冗談交じりだったが、君も毎日現金を一カ所の封筒に入れた後、空の封筒を捨てるのは勿体ない気がしていたので、鹿島から給料を受け取ると、すぐその日の日当と明細書を抜き出し、残った茶色の封筒はそのまま彼女に渡した。お金を使う場所がないので、一枚の封筒の中は君が最近見たこともないほど一万円札が溜まっていた。とはいっても、十枚足らずではあるが……。だが、金を遣えない世界では、一万円は価値がないように思えた。外に出ればきっと……、一万円札が増える度に、再び外への憧れが強まってゆく。
 年末も差し迫った夜、鹿島が食後のコーヒーをベッドまで持ってきた。彼女は、君のコーヒーをふうふうと冷ましながら、照れたように言った。
「ねえ、赤ちゃん……欲しいな。私たちの」
 君は驚いてコーヒーを受け取り損なうところだった。彼女は蠱惑的な目を君に向ける。長い睫毛に覆われた切れ長の目。その真意を測りかねて訊いた。
「だって、産むのなら産婦人科を探さなきゃいけないし、それにはまず……」
「五階の片桐さんのお母さんは助産師だって言ってたわよ。来てもらえるんじゃない?」
 彼女の微笑みを見て、それが冗談であることに君は気づく。彼女は息で冷ましたコーヒーを渡すと、隣に腰かけて来て、足を宙に浮かせて言った。
「ああ、つまんない。子どもでもいれば、礼田君との生活、もっと楽しくなるのになあ」
 彼女は口を尖らせる。その魅力的なやや長めの顔は、白く透き通るような肌に覆われている。
 君はそれに何と答えていいからわからない。その冗談をどのように受け取っていいのかを見通せない。黙りこくる君に、彼女は顔を向けてきた。
「嘘よ。赤ちゃんなんてとんでもないわ。大きくなったら学校にも行かせなきゃならないし、予防接種も必要だもの」 
 君は静かに頷いてみせる。この閉鎖的な空間で家族を養うというのは物理的に不可能だと改めて認識する。
 彼女は、突然、目を輝かせて言った。
「そうだ! ペットを飼いましょうよ。これならできるよ」
 その嬉しそうな様子を見て、不安が頭をよぎる。
「ペット? やっぱり外に出られないと……」
 彼女は首を振った。
「九階に、ペットショップあるのよ。今から見に行きましょう」
 彼女はコーヒーカップをサイドテーブルに置くと、腕を引っ張ってきた。
「行くのはいいけど……、行けないでしょう? ここのエレベーターは五階以外には停まらないんだから」
 すると彼女は、そんなこと今まで知らなかったの? と言わんばかりに目を丸くする。
「非常階段があるの。なぜだか下は三階までしか下りられないけど、上になら行けるよ」
 
君は彼女に腕を引かれるようにして、着物のコーナーを通り過ぎた。その奥には、階段に通じる空間を塞いでいるらしい灰色の扉があり、彼女はそれの鉄のノブに手を掛けた。扉には鍵がかかっておらず、中はいつもの階段よりもやや狭い空間が広がっていた。そこは暗かったが、非常灯の灯りを頼りに一段、また一段、躓かないように気をつけながら上を目指した。
 九階へ来たのは初めてだった。勝手を知っているらしい鹿島が「こっちこっち」と手を引きながら、先を歩いていた。君はすっかり照明の消えたフロアを不安になりながら、ペットショップはどこだろうと目を凝らしている。すると、目の前に大きなガラスのショーケースが現れた。
 はじめはよく見えなかったが、徐々に目が暗闇に慣れてくると、ショーケースの向こうに小さな階段やトイレの容器、縄でできた犬か猫のおもちゃがぼんやりと視界に浮かび上がってきた。
「ここにはいないよ」
 そう呟くように言ったが、鹿島はとうに君の傍から居なくなり、ショーケースの向こうにある扉を開けている。
「こっちよ、こっち。今は展示していないんだから」
 彼女の声に誘い込まれるようについてゆくと、更に深い闇の中で動物たちの息遣いが聞こえてくる。何匹かの犬が「キャン、キャン」と声を上げて、君の心臓を冷やす。鹿島はスマホを取り出してライトを点け、その光を周囲にばら撒いた。そこには何匹ものプラスチック製のケージがあり、犬と猫が怯えたような目で一斉に君たちを見つめている。
「ねえ、どの子にする?」
 鹿島は腕を絡めながら言った。その横顔は、楽しいことが起きる嬉しさを無理に抑えようとしているように不自然なほどニュートラルだ。
「でも、犬は嫌あよ。すぐ吠えるし、散歩に連れて行けないもん」
 君は正気に戻って、現実的な話をする。
「あのさ、ここにいるペットって売り物だよ、ね? 僕たちで購入するのかい?」
 彼女は表情を変えずに言う。
「それもいいけど、夜だけ飼うの。朝になったらここに戻してあげればいいわ。で、どの子がいい?」     
 彼女に言われて、ライトがあるとはいえ見え辛い中から、どれかを選ぼうとする。精悍な顔つきのアメリカンショートヘアー、大きくてがっしりした茶色っぽい長毛猫、そしてさっきからじっとこちらを見ているが、声を発しない白くて丸みを帯びた猫……。君のその猫を見つめて返していると、彼女が持つスマホの照明はその猫の周囲で動きを止めた。
「きっとペルシャ猫ね。いいわね。鼻が潰れたようにぺしゃんこで可愛いし、きっとおとなしいから噛みついたり引っ掻いたりしないよ」
 そういうと、彼女はケージの扉を開け、慣れた手つきで仔猫を両手で包む。そして君の前に差し出すだろう。
「ほら、抱っこしてみて」
 猫など触ったこともない君は、恐る恐る両手を差し出し、そこに毛の塊のような白くてふわふわした動物を乗せられるのを待つ。柔らかい毛が心地良くもありくすぐったくもあったが、何しろ弱く脆そうに見える小さな動物はすぐに壊れてしまいそうなので、丁重に胸元に引き寄せる。
 落とさないよう細心の注意を払って、自分の胸の中にくるんだ生き物の体温を感じ取る。そこから、突如、逃げるように温かい生き物を胸に、ペットショップを出た。
 来た時の記憶と、ぼんやりとしか見えない視界、足先や肩にぶつかる触覚を頼りに、来た通路を戻り、非常階段を駆け下り、ひたすら五階を目指す。後ろから、鹿島のはあはあという息遣いが聞こえているが、振り返っている心の余裕はない。それに、その子を連れて帰ることは暗黙の了解だったのではないか? きっと彼女も同意してくれている。そう確信して猫を落とさないで階段を降りることだけに意識を集中する。二人の他には誰も百貨店に残っていない。という自信はあったものの、盗みをした人間が追手から少しでも遠くに、一刻も早く逃れようとするかのように、君は足をもつれさせないよう注意を払いつつ全力で五階を目指す。
 非常階段に漏れる光から、ここが五階だと確信すると、君は猫を抱いた手で器用にドアを開ける。後からもうひとつの階段を降りる足音に、安堵の息を漏らす。彼女が一言も君を止めることを言わなかったのは、きっと同じことを考えていたからだろう。君は、扉を開けて、恋人が追いついてくるのを待つことにした。
     
 十数秒も待っただろうか、上からの足音はすぐ傍まで近づいてきて、そのリズムは早打ちからやや弱まったようになる。君の恋人は、扉の隙間から顔を覗かせ、久し振りに浴びる光のシャワーに顔をそむけた。扉の陰には猫を入れるためのキャリーケースと、大きなプラスチックの箱のようなものをそれぞれの両手に持っているのが見える。急いで追いかけてきたのか、息を切らしていて、話し出すのに少しの時間を必要としている。
「はあ、はあ、礼田君どうしたのよ。いきなり駆け出すんだもの、びっくりしちゃった。ほら、こっちのケースに入れて運べば楽だったのよ。そんなに急ぐ必要なかったんじゃない?」
 君は何かに捕まることを恐れて逃げ出したのだが、なぜかそれを口にするには勇気が必要な気がしている。
「ここの百貨店って、僕らの他には誰も泊っていないのかな?」
 代わりに口をついて出た言葉はこれだった。彼女は君に目配せをして、階段のドアをもっと大きく開けさせる。君は、ほんの少しの間、猫を抱いていることを忘れていて、すぐに自分の胸元に視線を落とす。仔猫は体を小刻みに動かして、何かを訴えているようだ。それが食事なのか、トイレなのかはわかりかねた。
「誰もいないと思うよ。外には警備員がいるとは思うけどね。夜、会ったことないわ」
 彼女は、非常階段の扉をくぐると、すぐ横にプラスチックの箱を置く。その時、中に入っていた砂がザーっと音を立てる。鹿島は、君が質問をする前に口を開く。
「ここを猫ちゃんのトイレにするの。猫ってね、決まった場所でトイレをするものなの」
 その砂の入ったプラスチックの箱がトイレだと理解する。犬のように、散歩先の電柱でトイレを済ませるものではないことを知って、これは世話が楽かも、と期待する。真っ白な仔猫は、さっそくそのプラスチックのトイレに入り、腰を落としてしゃがんでいる。鹿島は君を肘で突く。
「こら、女の子のトイレ姿をじっと見るものじゃないの。猫ってデリケートなんだから、少し離れましょう」
 彼女に手を引かれ、着物のショーケースの所で隠れて様子を窺う。トイレの中では、仔猫がトイレを済ませた後、中の砂を脚で掘っている。
「可愛いよね。名前をつけようよ、礼田君」
「名前……」
 売り物の猫に名前を付けていいのかどうか戸惑う。その時、トイレを済ませた猫が、そこから這い出た後、よちよちと君たちの傍まで歩いて来た。鹿島はそれを抱き上げ、はしゃぐように言う。
「つけましょうよ。礼田君がつけていいよ。そんなに難しく考えなくても」
「この子、お店の猫だよね?」
 彼女の抱く猫にそっと手を触れる。猫は君の指をおもちゃだと思っているのか、甘噛みをしてきた。
 歯が指に当たり、軽い痛みと共に、生き物が世界に抵抗しているという実感が伝わってくる。この世界は作用・反作用から成り立つように、猫と君にとっては噛む感触、噛まれる痛みが毛の塊と世話人とを繋いでいることを理解するだろう。その観点で関係を捉えると、この儀式のような児戯は、とても大切なもののように思えてくる。
 猫がひとしきり目の前の人差し指を噛んだ後、君を真ん丸の目で見つめている。
「この子、売り物だよね。売れたら僕らの猫じゃなくなっちゃうね」
 君は寂しさを声に含めて言う。彼女は、無邪気にはしゃぐ少女のように返答をする。
「そうよ。売れちゃったら、また別の子を連れてこなくちゃね。どうせ猫なんて、売れたらブリーダーが新しい子を連れてくるんだし。そうなったら、私たち、ずっと仔猫を飼うことになりそうね」
 背中に冷たいものを感じる。ずっと異なる仔猫を飼い続ける……。君は鹿島の屈託のない笑顔の中に、狂気のようなものを感じ取る。一匹の猫を飼うことを前提としないその考え方は、どうしても心になじませることができなかった。
「で、名前は?」
 昔の格言か文章の一節を思い出す。
 
  ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。 
 
 君と彼女が河の中で立っていて、二人が変わらなくても、河は流れている。そんな光景が浮かんでくる。歳は一年ごとに取ってゆくが、飼い猫は常に小さいまま……。この百貨店から永久に出ることはないなどとは考えていないが、先ほど九階で見た仔猫もまだ見ぬ仔猫もいつか一度は飼い――とはいっても、夜の間一緒に過ごすだけだが――そしてすぐに居なくなる。そのサイクルを続けていくという考えが恐ろしいものに思えてくる。
「ねえ」
 彼女に肘で突かれて、目の前に猫がいるという現実に引き戻される。
「ペットを飼うのが嫌だったら、そう言ってくれてもいいのに」
 首を振って咄嗟に「タマ」と口にする。彼女は不満そうだ。
「もうちょっと呼んで楽しい名前にしましょうよ。それじゃ昭和の猫だわ」
「じゃ、じゃあコトラ」
 その名前に曇りがちだった彼女の表情は、急に噴き出しそうなそれに変わった。
「猫なのに虎? 礼田君面白い。しかも虎柄でもないのにね。あ、さっきのアメリカンショートヘアーの方が良かった?」
 君は首を振って猫に指を噛ませる。君たちが寝るベッド、食事をするテーブルウェア、そして可愛がるペットさえも自分のものではない。全て作り物……。そう考えていると、察しのいい彼女は猫を君の顔に押しつけてきた。フワフワした毛がくすぐったく、温かみを感じる。幸せな気分まであと少し。しかし、それを壊すのは君の仮の恋人だった。
「シェアリングサービスだと思えばいいのよ。SDGsね、今流行の」
 そのあっけらかんとした言い方に、段々とそのように割り切っていいのかという疑問が浮かび上がってくる。君の奥深い所ではしこりのようなものがあって、そのドライとも思える彼女の言葉に対する反応の流れを堰き止めている。
 ダイニングテーブルの上では、仔猫がぴちゃぴちゃとミルクを飲んでいる。
「これは、試供品?」
 彼女は首を振る。
「これは買ったの、私の給料からツケで。ミルクは夜だけだからきっとお金はそれほどかからないわ」
 仔猫は舌をスプーンのように丸めてミルクを掬っている。周囲のテーブルクロス代わりに敷いた包装紙は、その子が飛ばしたミルクの染みが小さな点となって広がっている。
 君はやはりツケで買ってきたドイツ製の発泡ワインを、彼女と自分用に用意した展示用のグラスに注ぐ。
「猫を見ながらワインを飲むのって、幸せ」
 彼女はアルコールが体に回るより早く、顔を染めて言った。
「幸せ?」
 その言葉がさっきから堰き止められていたものを流したようで、思わず問い詰めるような口調で尋ねる。
「ええ、幸せ。礼田君、今日は変だよ。ああ、この前、外に出られなかったこと、怒っているのね? 私に気兼ねせずに、出て行きたかったら行っていいのよ。方法があれば、私にも教えてね」
 その言葉に様々な意味を探し当てる。どうせ出て行けっこないけど、出て行ったとしても私の所に戻って来るのはわかっている、外に行ってもどうせここの居心地の良さが忘れられるはずがない……。きっとそう思っているんだ。そう決めつけた君は、彼女の瞳を覗き込むが、どうしてもそこに皮肉や意地の悪さを見つけることができず、それどころか怯えのような微かな震えを認める。
 君は一生懸命アルコールで口が軽くなるのを抑えながら言う。
「あのさ……、自分のじゃない物に囲まれて生きていくのってさ、どうなんだろう?」
「どうなのって? ああ……だって外の世界に行っても家は買えなきゃ賃貸でしょ? 私は路上にいたから無料だったけど。あ、道路は国のものか?」
 彼女はあっけらかんとして言った。
「君だって……鹿島だって、僕の恋人ってわけじゃない」
 勇気を振り絞って言う。これを口にしたら二人の関係が――VRの電源が切れてしまうように――一気に崩壊して、初めからなかったことになるか、もっと悪い状態になるかもしれないのに。それでも言わずにいられなかった。
       
 鹿島は驚いて、黒くて美しい瞳を広げて尋ねる。
「そんな風に思っていたの? 信じられない……酷いよ」
 その目には、みるみる涙が溜まり、こぼれおちそうになる。それは水はけの悪い風呂場の湯が溢れそうになったことを想起させ、何か言葉をかけて止めなければという気にさせるが、言葉が見つからない。
 しばらくの間、彼女は気の強さに支えられて、涙を堪え、目から落とさないように上を向く。その姿を見て、言葉を感情の渦に巻き込まれたまま吐き出さないよう慎重になりながら口を開く。
「いや、遊びだとか、鹿島のことを大切に思っていないという意味じゃなくて、百貨店に閉じ込められて、借り物に囲まれていると、全てが、僕の周りのすべてが偽物なんじゃないかって気がするんだ」
 君は説明を尽くそうとするが、「偽物」という単語を口にした途端、自分自身も偽物かもしれないという思いに捉われて、口が麻痺したようになってしまう。目の前の偽の恋人は、涙声のまま、まだ勝ち気な態度を保とうと反論してくるだろう。
「私まで偽物だって言うの? あんまりじゃない? じゃあ、本物の私はどこにいるっていうのよ」
 それを聞いて一瞬ひるむが、それは言いたいことを伝える表現法が間違っていたからだと気づく。
「偽物って、そういう意味じゃない。本物って言うのは、本当に僕と一緒にいて……、いつまでも一緒にいるような……。替えのきかないような関係で……」
 彼女の納得がいっていないような表情に、今ひとつ言いたいことが伝わっていないのを感じ、君はもどかしい気持ちになる。
「替えのきかない? 私、あなたが好きなのよ」
 彼女の声は高くて、耳に刺さるように響く。
「その気持ちまで偽物だっていうの?」
「でも、それはこの百貨店で閉じ込められているのが、鹿島と僕の二人しかいないからだよ。狭いエレベーターに閉じ込められた男女が恋に落ちるようなもんじゃない?」
 大昔に、ドラマで見たような気のする話を持ち出す。我ながら良い喩えだということに気づく。そうだ、ここは開かないエレベーターが大きくなったようなものだ。君は更に言葉を続ける。
「夜、お互いに相手が一人しかいないからだよ。だから、大勢の対象から見つけた運命のたった一人の人じゃなくて……」
 そこまで言うと彼女はふふと軽蔑したように笑って、ワインを口に含む。そして、
「ごめんね。でも運命の人だなんて、恋愛体質の女子みたいなことを言うんだもん」
 と言う。
「礼田君、この閉鎖的な環境に慣れなきゃ駄目よ」
 更に、彼女はそうつけ加えるだろう。
       
 彼女は、ひと呼吸を置いて続ける。
「きっと、ここから出たって同じよ。私、礼田君のこと大切に思っているよ」
 彼女のペットに対する考え方がどうしても気に入らない、そこに気づいた君は彼女を傷つけるかもしれないと思いながらも尋ねる。
「でも、もしここに新しい男が現れたら、そちらに乗り換えるんじゃないのか? その……、ペットにすると決めた仔猫が売れちゃったら、新しい仔猫を飼えばいいのと同じ考え方で」
 喉の奥につっかえていたものを吐き出せたような気になる。鹿島は眉間に皺を寄せる。
「さっき言ったこと気にしているのね? それは仕方ないでしょう? 猫はいつか売れちゃうんだし。どうしてもって言うならお金貯めて購入することもできるよ、ローンだってあるし」
 そこまで言われると、君は困ってしまう。猫を飼うというのは――特にこんな閉鎖的で昼間は自分の部屋がないような世界で飼うのは――責任と覚悟を伴うものなのだという現実を突きつけられたからだ。彼女は君の表情をじっと観察している。
「礼田君にとってもこの形の方がいいよ。仔猫は売れて居なくなったらまた新しい子を飼うの。そうしたら、猫が歳を取って病気になって死ぬところを見なくても済むのよ。ね? そういう辛いのを見たくないでしょう?」
 彼女はグラスから離した手で君の手を握り、そっとさすりながら言った。その手は柔らかくて優しい、しかし、今吐き出された言葉に君はしこりを感じている。
「辛いけど……、それも含めてペットを飼うってことじゃないのかな? 鹿島は、僕の都合の良い面だけを見てつき合っているの?」
 そうだ。君は誰かにとって替えのきかない存在でありたいのだ。長所も短所も受け入れて欲しい。良い子だから可愛がるという君の親の教育方針ではなくて。
 彼女は察しが良いらしく、今の言葉の裏に含まれる気持ちの一歩先を読もうと、切れ長の目で、探るように、君の手、そこに浮き出た血管、そこから上がって胸元、首、そして顔へと視線をゆっくりと動かしてから、口を開く。
「ねえ、礼田君。この世で君の代わりがいないと困る人や会社なんてあると思う? 人はかけがえのない存在、なんて薄っぺらいテレビのコメンテーターが口にしていたけど。私、そういう嘘を綺麗事でくるむ人、大嫌いなの。かけがえのない存在だったら、礼田君、きっとネットカフェなんかで暮らしてこなかったでしょう? ここに来るまでに嫌な仕事をしてきて、使い捨てのような扱いを受けてきたならわかるでしょう?」
 心の底で煮えたスープが泡を吹きだしそうな感覚をおぼえる。しかし、スープの泡が盛り上がって溢れる前にすっと火は消え、泡は静かに引いてゆく。百貨店という職場での居心地の良さとこれまでの日雇いバイトの辛い思いのギャップに目を向けることができたからだ。日雇いのバイトでは、君は名前で呼ばれず「おい」か「バイト君」と呼ばれる。良くてせいぜい「(臨時バイト)コーポさん」と紹介会社の名前を呼ばれる程度だ。ところがここでは鰻屋にしてもスポーツ用品店にしても、君の寝坊癖や動きの緩慢さにみんな呆れながらも「礼田君」と必ず名前で呼んでくれる。支配人のような偉い人でさえも、君を名前で呼ぶ。少なくとも外の世界では、君は代わりがいくらでもいる消耗品として働いているので、顔がないのも同然だったろう。それが、百貨店で働く人間として認識されているという意識を持つと、心に押し込められていた「割り切って非人間的な存在として働く」ことを嫌悪していた日々が表象され始めたのではないか? だからこそ、彼女が仔猫を使い捨てにしようとしている事に反感を持ったのではないか? そのように思考を巡らせてみる。
 彼女は諭すように言う。
「ねえ、お互い、かけがえのない存在なんかじゃないよ。でも、目の前にいる礼田君に外に行って欲しくない。それだけは本当よ。偽物じゃない」
 彼女は握った手の力を強める。さっきまでの無邪気な様子とはまるで違った表情に戸惑うだろう。そこへコトラが頼りなげに歩いて来て、君に重ねられた彼女の手の甲を舐め始める。途端に彼女は華やいだ笑顔になり、それを見つめているうちに、愛しい感情が芽生えてくるだろう。君は、重ねられていた手をそっと引いて、仔猫が口にしないよう、ワインの入ったグラスを持ちあげ、飲み干してしまう。胃の底から火照りが広がって頭のてっぺんまで昇ってゆくのが感じられるだろう。鹿島はそれを見てクスクスと笑う。
「礼田君って、お酒弱いのね。このワイン高かったの、味わって飲んでよ。君が望むのだったら、このお酒を買わずに仔猫代にあてれば良かったね」
 君は酔いがすっかり回った目で、仔猫が真っ赤に染まった手の甲を舐めに来るのをぼんやりと待ち受けている。やがて仔猫は、期待通りに、君を母親のひとりと認めた行動をとるだろう。
       
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