石造りの迷宮 第八話
第八話
正月二日は、短縮営業とはいえ、初めての福袋の販売に巻き込まれ、へとへとになるまで働いた。君は、紳士服の初売り売り場のセッティングを終えると、八階の鰻屋を手伝うよう、フロアマネージャーの那由多から指示された。
年末の長いサボタージュの事を店主に言われるのではないかと気が気でなかったが、言われたら素直に謝ろう。クビになっていないのだから、きっと主は支配人にトイレに行ったついでに消えたことを告げ口しなかったのだ。そう考えると気分は落ち着き、鰻屋ののれんをくぐる頃には
「礼田です。手伝いに来ました」
と威勢の良い声で主に呼びかけることができた。
カウンターから出てきたのは見知らぬ男だった。
「やあ、礼田君。今年もよろしくね。初売りお疲れ様。こっちも大盛況だよ」
今年も、と言われて君は当惑をおぼえるだろう。主の雰囲気が変わったのかと思ったが、主にしては痩せすぎているし、何よりこの男の背は高かった。なのに、君の事を知っていて当然といった顔をしている。
最初、店を間違えたのかと思っていた。何しろどの席も一杯で、店の外の用意された椅子に、入りきらなかった客が腰かけていた。こんな事態はこの百貨店に来てから見たことがなかった。しかも忙しそうに立ち働いている若い男にも見覚えがない。きっと別の店だ。一旦店の外に出てのれんをみてみるが、店名は変わっていない。君はもう一度店に入り、夢中で鰻を頬張る客、メニューを見ながら四人掛けのテーブルで肩を寄せ合って食べるものを決めようとしている客、お重を空にしてくつろいでいたが、外に待ち客がいるのを見て急いで荷物をまとめようとする客たちの間を縫って、濛々とした煙の向こうで忙しく立ち回る、さっきの男に声をかけようとする。
「礼田君、どうしたの? 忙しいんだよ。お重を洗ってくれないかね?」
男は、広い額に皺を寄せて言った。丸い鼻、口角が上がり気味の口元、目じりが下がった優しげな目、しかし、店主ではない。顔や体型、背丈だけではなく、声も違う。福盛さんはもっと高めで、喉を傷めていたのか嗄れ気味の声だった。今日の人は、低音のバスの響きだ。まるで違う人物なのに、店の主のような顔で振舞っている。
君は不安と怒りの入り混じったような気分で、煙の向こうの男に声をかけた。
「仕事しに来ました。ところで主はどこかへ?」
「主? 私だが」
男は目を細めて笑ったように見せかける。それはあくまで見せかけだけだ。君はそう決めつける。
「いや……福盛さんは? ちょっとぽっちゃりとしていた。奥さんも一緒に働いていた」
「よろしくやっているんじゃないですかねえ? はい、これ六卓にお願いします」
あっけらかんと言い、重箱二つを手前に押し出して来た。納得のいかないまま、それを言われたテーブルに運んで、再びカウンターに戻って、先程の発言の真意を問い質そうとする。
「ん? 質問には答えましょう。でも、手を動かしながらでいいかな? お重を洗って下さい」
店主を名乗る男は、シンクから溢れそうになっている汚れた重箱の山を指した。君は半ば、やけになってスポンジに洗剤をたっぷり滴らせると、片端から重箱をそれで擦り始める。
「福盛さんをご存じですか? ガハハと豪快に笑う」
君は、自分が言ったそばから、そんな笑い方をしただろうかと疑問に思ったが、彼ならきっとそんな笑い方をするに違いないと思い、修正しなかった。
「ええ、知っていますよ。福盛さんね」
新しい主はぎこちない手で鰻の刺さった串をたれに漬けると、肉は飴色に染まった。それを煌々としている炭の真上にある網へと乗せる。
「それで福盛店長はどうなったんです?」
君は流れてくる煙に咳き込みながら尋ねる。
「辞めたというか、居なくなりましたよ。今日から私がこの鰻屋の主です。鴨田って言います。よろしく」
よろしくお願いします、と呟くように言うと、前の店主の辞めた経緯をこの人は知っているのだろうか、と考える。隣にいる男は口角を上げたままでいるが、やはり笑っていない。一見、いい人に見えそうでその実はそうでもないと予想し、警戒している。それは前の店主に親しみを感じていたから、この男を不当に低く評価しているのかもしれない、そう思った。
「奥さんと和解したんですよ。それで、ここに居る理由がなくなったんですね」
鴨田と名乗った男は、目を細めていた。他人事のようではなく、福盛が辞めたことが嬉しそうに見えた。そう言えば、手遅れだけど奥さんに許してもらったとかどうとか言っていたな。それと仕事を辞めることと関係しているのだろうか? 君は話の筋道が見えず、益々混乱している。
「でも、奥さんとうまくいったからと言って辞めなくても」
彼は人差し指を一本立てて、小さく速く振った。
「この百貨店では、願いが叶ったら、もうそこに存在する意味はないんですよ。福盛さんの願いは、奥さんと和解することだったから。だから福盛さんは仕事を辞めて、行くべき所へ行ったのですよ」
「行くべき所って?」
ひとつの重箱を洗い終え、次の重箱に取りかかる。先程から納得のいかない理屈を聞かされているので、頭に靄がかかったようになっている。
「さあね、いずれにせよ遠い所でしょうね」
「ところで鴨田さんは、福盛さんとは長いつき合いだったんですか?」
君は、新しい男をどう呼ぼうかと思案した。そこでやはり名字が無難だと思ったが、どうしても声が不自然に高くなるのを意識してしまう。それに対して、福盛さんの名前を出した時、あの恰幅の良い男の姿が浮かび上がり、この前の無断で外出したことを謝りたい気持ちになった。
「いや、全然。知ってはいるけど。どうして?」
鴨田はにこやかな顔をしている。君は更に尋ねる。
「いや、福盛さんが辞めて嬉しそうだから。鴨田さんは、ここの店長になりたかったのですか?」
嫌味のこもった言い方だと、自己嫌悪に陥りそうになる。慌てて言葉を選び直して謝罪しようと、口をモゴモゴさせている間に鴨田は言った。
「全然。私、前は外資系のプロジェクトマネージャーをやってましたから、飲食店初めてですし」
そのあっけらかんとした言い方に、何も言えなくなってしまう。
だから鰻の扱いがぎこちなかったのかと納得する。
「ええ? でも……店主ですよね?」
「ええ、店主です」
男は、にこやかな顔のまま答える。その時、彼の笑みは作り笑いなどではなく、ずっと陽気が続く地方で、花が咲いて蝶が舞うように、朗らかな気分に支配されて自然に出るものだということに気づくだろう。
「店主って、資格が必要ですか? 店に食品衛生管理者は必要ですが、あの人が持っていますし」
さっきから客席の周囲で忙しく立ち回って注文を取っている坊主頭の男を目で示した。彼は疲れているのか、痩せた顔に目をギョロギョロと輝かせて、注文が終われば、重箱の乗ったお盆を取って、別の客席へと運んでいる。店主は言った。
「彼が店主でも良かったんですけど、私が鰻を焼いてマネジメントをすればいいと、支配人に言われましてね。そうしているんですよ」
そんなに簡単でいいのだろうか? そう思って網の上を見ていると、煙が激しく立ち込めている。
「鴨田さん。火が強いのでは?」
彼は話に意識が向いていたせいか、団扇で炭火を扇ぎ過ぎたのを見落としていた。慌てて串を金網から持ち上げているが、鰻は黒い焦げ目だらけになっている。
「ああ、失敗しちゃった。まだまだですね」
「すみません。僕が話しかけたばかりに」
彼は笑みを浮かべたまま、首を振った。
「まだ慣れていないからね。もう一串焼けばいいんですよ」
そう言うと、再度新しい串をたれに漬けて炭火の上に乗せる。
「そうそう、願いが叶うと、百貨店ではもう居られないというか居る意味を感じられなくなる。という話でしたね。君もきっとそうなるでしょう。願いってありますか?」
「僕の願い……ですか? あるかなあ」
君は突然願いがあるはずだと決めつけられたように思い、答えに窮するだろう。
「よくわからないです。今は住む所もあるし……。百貨店内ですけど。お金も使わないので貯まりますし。何かあるかなあ」
心の中で、彼女もいると呟いたが、それは彼女に告白めいたことをされたからだと思い出し、頬が熱くなる。
君を見つめていた鴨田は眉を少し上げる。
「どうやら、礼田君はここに長く勤めることになるかもしれませんね」
「閉じ込められ続けるってことですか?」
まさか、新任の店長までが君を閉じ込めようと画策しているはずがないと思い、賭けに出た。ここから出られないのは、やはり百貨店の陰謀なのではないか。その疑念を口にするのはこれまで恐ろしかったが、いつか対峙しなければならない問題だとも思っていた。
「はて? 閉じ込められる?」
「ほら、閉店になったら出られなくなるんですよ、ここでは」
「どこへ出られないんですか?」
主は焼き上がった串を取り出して、じっくりと眺め満足そうにしている。
「決まっているじゃないですか。外ですよ、外の世界ですよ」
君は次の汚れた重箱と格闘しようと下を向いたまま言う。主の反応が気にかかり、横目で窺うようにして顔色を見る。彼は笑みを浮かべたまま串から焼けた鰻を丁寧に抜き、熱々のご飯の上に乗せる。
「今度はうまくできました。高本君、こちらを二番へ」
坊主頭の男が、つかつかとカウンターにやって来て、黙って重箱をお盆に乗せると、立ち去って行った。
「外に出てどうしたいんですか? 新しい仕事を探すとか?」
鴨田は、次の串を網に乗せ、再び団扇で扇ぎ出す。今度は初めからゆっくりとした手の動きで、炭火をじっと見つめながら。
「いや、決まっていないですよ。ここでの仕事は続けたいですけど」
「それは無理なんじゃないですかねえ」
君が泡のスポンジを持つ手を止める。
「どうして、ですか? ここは通いで仕事をしてはいけないとか?」
彼は首を振った。
「ほとんどは通いですよ。そして願いが叶ったら、この百貨店で働く気を失くしてしまう。礼田君はずっと泊って仕事をしているんですってね」
君は、彼の目を見て頷く。
「きっと出られないのは、理由があるんですよ」
「僕がここに居ると、お店に都合が良いからとか?」
「そんな風に悪意を持っていると考えていますか? 私や福盛さん、そして支配人たちが」
諭すような言い方に、君は混乱している。この前はもう少しで出て行けそうだった。出て行けなかったのは、自分の意思だ。でも、本当に出て行けたのだろうか? あの扉を越えていたら、外の世界が開けていたのだろうか?
考えている間に、電話が鳴った。主は君に「火を見ていて」と言い残して、レジ近くにある受話器を取った。
「おおい、礼田君。支配人から、至急四階子ども服売り場に来てくれってさ」
君は、鴨田と話を続けたかったが、至急という言葉を聞いて、すぐに降りて行くことにした。エスカレーターを使わず、階段を使って降りて行くことにした。この階段を使うのは何度目で、これから何十回、いや何百回も昇り降りをするかもしれない。階段を歩き続けることを想像すると、人生が虚しく過ぎるような感覚に陥るだろう。階段を行き来するだけの人生……。いや、人間関係に恵まれた狭い世界で生きていくのは決して悪い事じゃないはずだ。そう言い聞かせて、五階に続く踊り場に脚を踏み入れた時だった。
非常扉が突然開いた。扉の間から顔を覗かせたのは、鹿島だった。かつ宮のエプロンをつけたままの鹿島だった。彼女は一瞬、驚いて目を見開くが、すぐに嬉しそうな表情に変わる。君も、突然の遭遇に驚いて足がもつれそうになるが、すぐに彼女の方に駆け寄るだろう。
「礼田君。丁度良かった。もしかして鰻屋さんでお昼休憩取っていないかなと思って……。今日はどのお店も混んでいるものね。これ、お弁当作ったの。今日はお店に沢山ある卵を使って、そぼろ丼にしてみました」
彼女は弁当の入ったビニール袋を掲げて見せた。君は礼を言い、ビニールを受け取って、すぐに呼ばれていると言って立ち去ろうとした。
しかしその時、鹿島が消え入りそうな目に変わったのに気づき、立ち止まる。こんな時、君はどう声をかけるべきなのだろう。長い睫毛の下で潤う目は、何かを求めている、そう思った。「どうしたの?」というありきたりな言葉ではいけない。そう直感していた。
君はそっと彼女を引き寄せて抱きしめてみる。彼女の吐息が静謐な空間に淡く広がって消える。手に彼女の腰骨を感じて驚く。勿論、前から彼女が痩せていることは知っている。しかし、手に伝わった感触で彼女の脆弱さを実感したのは初めてだったのだ。その手の感触で、かりそめの彼女だったはずの鹿島が愛おしくて守ってやりたいという存在へと変化していることを意識する。
君は、彼女の髪にキスをして、そっと囁く。
「好きだよ」
彼女は顔を上げて、信じられないという表情になる。目に涙が溜まり、次いでにっこりと微笑むとその涙が頬を伝わってくる。
「嬉しいわ。ずっと言って欲しかったの……。私を好きになって欲しかったの。この狭い世界の片隅で愛されたかったの」
彼女は君の胸に顔を埋め、しゃくり上げながら何かを呟いているが、涙混じりのその声を聞き取ることができず、君はただ黙って彼女の背中をさすっている。
彼女はしばらく肩を震わせていたが、やがてそれは止み、顔を上げて指先で涙を拭く。
「ごめんね。嬉しかったもんで。仕事急いでいるんでしょう? じゃあ、お弁当食べてね。食べとかないともたないぞ」
そう言うと笑って、入って来た時と同じ非常扉から姿を消した。君に弁当を届けようとしてやって来て鉢合わせしたという事実に気づくと、君の心は幸福で満たされる。そこからは浮き立つような気分で階段を軽やかに降り、四階の扉を開けてふんだんにフロアの光を浴びた時には、それが春の陽光のように暖かなものに感じられるだろう。
子ども服売り場は人でごった返していた。福袋を持って店舗のエリアから外側の通路まで大勢の人が並んでいた。人がまばらな奥まった場所では、セール品ではない汽車がプリントされた青い服や、ウサギが張り付けられた上品な色の服を、子ども連れの母親が吟味している。
店員の姿が客に紛れて見えないことが気がかりになる。耳を澄ませていると、客たちの高い声の間に、男性の丁重なお礼の言葉が低い声で響いている。人いきれを掻き分けて声のする方へと向かうと、支配人が福袋を客のひとりひとりに手渡していた。
「ありがとうございました。今年もよろしくお願いいたします」
そう口髭を動かして頭を下げて戻した時、君と目を合わせる。その時、彼の顔の輝きは、無人島で救助船を見つけた時よりも明るかったに違いない。
「れ、れ、礼田君、やっと来てくれた。バックヤードに五千円の福袋があるから、持てるだけ持って来てくれるかな。サイズはなるべくばらけるように。一万円のも二三ずつ持って来て下さいね。大至急ですよ」
君は、床に落ちていたトーマスの青いリュックを人々の足から救い出すと、急ぎ足でバックヤードに向かい、言われた通りの福袋を片端から台車に乗せて店舗へと向かった。ガラガラと音を立てて、福袋のまばらになった仮説の台の前で止まると、何人かの女性が遠慮がちに手をのばしてきた。
「あのう、これは……購入しても……」
君は支配人の方を見るが、相手はレジを叩くように打ち込むのに夢中で、君の尋ねかけるような視線に気づかない。そこで一瞬、支配人だったらどう答えるかと想像した上で「ええ、どうぞ」と答える。すると、五六本の手が福袋の赤や青、ピンクのバッグをひったくり、いくつかの手はバッグを戻してから別のバックを引っ張っていく。
自分の服のためではなく、家族の服のために頑張る母親たちを感嘆の思いで見つめるだろう。男性はさすがに居ないな、と思って店の周囲を見渡すと、父親らしき男性が何名か店舗の外の通路で購入した紙袋をいくつか持って立っている。彼らは皆、疲労と退屈でうんざりしたような顔をしている。君は、鹿島と結婚した時のことを想像してみる。甘いプラリネのような生活から、今見えるようなビターなカカオニブのような生活へはいつ変わるのだろうか? 想像の中ではどうしても子どもの顔は浮かべることができない。
台車を何度か往復させ、準備していた福袋はあらかた売り切った頃、やっと支配人に近づく余裕ができた。かれは伝票をせわしなく捲っている。売り上げの計算をできる所までやっておくつもりらしい。客も減った――通路にはまだ大勢の客はいるものの、目玉の福袋が無くなったので、残った客は気もそぞろにシャツを眺めているかレジに「もう売り切れですか?」と恨めしげに問う者しかいない――店舗の中で君は店長が目を上げるのを待つ。まだ君は、この店にどうして支配人が来ているのかも聞かされていないのだ。
「あの……、目黒店長は?」
支配人の手が止まった時、思い切って尋ねてみる。
「ん? ああ、彼女ね、辞めましたよ。今朝」
彼のあっけらかんとしてこだわりのない物言いに、当惑する。ここは従業員に親切な職場だと思っていたので、引き止めないのが意外だったのだ。当惑するが、まずは事情を知りたいと思う。
「どうして? 職場とトラブルでもあったんですか?」
彼は穏やかな目でじっと君を見つめてくる。その目には質問者への苛立ちも怒りも、退職者への侮蔑も同情もこもっていない。
「トラブル? いや、ないよ。彼女にとってここに居る意味がなくなったので」
「と、言いますと?」
何も答えてくれないだろうという予期に反して、支配人はさっぱりした口調で言う。
「新しいお子さんを授かったんですよ。目出たいことじゃないですか。一人目のお子さんを亡くして辛そうでしたからねえ」
「ええ、では産休ということですか?」
しかし、なぜ今朝? 正月二日の忙しい日の朝、急に? いや、そうではなく君に知らされていなかっただけで、休むのは前々から予定されていたということか? 支配人は首を振った。
「退職ですよ。誤解されているようですね。別に出産をしたから休むというのではありませんよ。お子さんが前のお子さんが生きた日数を越えて、彼女が安心したからですよ」
君は支配人の言っている意味を理解できていない。それを察した支配人は、伝票を引き出しの中に仕舞うと、周囲をちらと見てから言った。
「納得がいかないようですね。まず、彼女は自分の子どもを死なせてしまった」
君は小さく頷く。目黒店長がそれとのなく仄めかした内容とは矛盾していない。
「彼女が医者だったことは知っていましたか?」
君はえっ、と小さな声を上げてから首を振る。どうして医者が子ども服売り場に? その疑問に答えようと、彼は話を続ける。
「病院の外科医だったそうですよ。ここに流れ着いた時は魂が抜けたようになっていました。何年か前の冬の夜に、お子さんが肺炎に罹りました。彼女は、入院させずに自宅で治療することを選んだそうです。外科医であっても医者ですから、自信があったのでしょう。勤務先で同僚の小児科医のアドバイスがあれば、自分で診た方がきめ細かい治療ができると。点滴のセットを自宅に持ち込んで、彼女自ら注射し、薬を飲ませていたそうです。昼間は病院で勤務を続けながらです」
「それで?」
「年末だったそうです、お子さんが急変したのは。その日は手術後の定期検査のための外来が混んでいて帰りが遅かったそうです。自宅にはお姑さんが来てくれていて、彼女の指示通りに、食べられる範囲でお粥を食べさせる手はずになっていました」
支配人は、悲しげな眼をした。
「お姑さんはお粥を食べさせてから寝かせた後、寝室から離れたそうです。様子を見に戻った時には、もうぐったりとして動かなかったそうです。救急車を呼びましたが間に合わなかったらしい。担当の医者によると、お粥を吐いた後、気管に詰まらせたのだろうということらしいです」
あのさっぱりしたような雰囲気の店長の過去を聞いて、陰鬱な気分が心の中に漂ってくるだろう。それでも、君は先を促す。
「ここにいらっしゃったときは、お客としてでした。お子さんが着るはずだったダウンジャケット――モンクレールでしたかね――を取り置きしていたのを受け取りに来られたのです。あまりにも憔悴されていたので、前の店長が念のために私の所に電話を寄越したんですね。それで私がお話を伺ったのですよ」
支配人は、いつも様子がおかしいお客様を見かけた時には連絡を入れるよう徹底しているともつけ加えた。
「今のような話をされて帰られました。私は心配になって、預り票にあった連絡先に電話を入れてみたのです。そしたら話の中で『医者を続けていられなくなった』とおっしゃっていました。おそらく、我が子を救えなかった自分に、医者をする資格がないと思ったのでしょうね」
君はここで何も言えなくなってしまう。慰めの言葉を言うべき相手は目の前の人物ではないからだ。漂う悲しみの波間で、抗うこともできずに流されていくだけだ。
「と、言うわけで、彼女の願いは叶いました。今日から礼田君が子ども服売り場の店長です」
支配人が急に明るい声で話す。その時、その内容が驚くべきものであったので「うわっ」と変な声を出してしまうだろう。
「いやいや、僕、この前ここに来たばかりですし、店長なんてやったこともないですし、責任者なんて務まりませんよ」
君は慌てて大きく手を振る。
「誰でも初心者から始めるものですよ。生まれながらの店長なんていません。やる前から投げ出してどうするんですか?」
支配人が叱るような表情をして言う。
「で、でも何をしたらいいか……」
「レジ打てますよね? 商品を運んで陳列しますよね? 陳列の仕方は今のレイアウトと同じでいいんですよ。勿論、礼田君のやりたいように並べてもいいですが」
彼は事もなげに言う。君の戸惑いは大きくなるばかりだ。店長は何をすべきかサッパリわからず、絶対に受けられないと考えて首を何度も振る。しかし、支配人は引き下がらない。
「今日は私が入りましたが、私には他の業務があるのですよ。礼田君がやってくれると助かるなあ」
少し甘えたようないい歳の男の口調に、君は噴き出しそうになるのを堪えるだろう。
「そもそも店で売る事しか知りませんし、伝票やら仕入れなんてやったことも」
「それは私が引き受ける。こっちに丸投げして下さい。礼田君は陳列して、お客様が商品をお持ちになったら、バーコードリーダーで読み取って、会計して袋に詰めて渡すだけ。これだけでいいです。後は私がやって、他のことは時間がある時に徐々に教えますから。オンザジョブトレーニングってやつですよ。そのうち若い子を手伝いにやりますから。新人さんが来たら負担も楽になりますよ」
「でも、八階の鰻屋の方が」
君はそれを口にした途端、福盛さんが去った事情も訊いておきたいという欲求が強くなった。
「あっちは、当面二人体制で行けそうです。店主が代わって、ええと……」
「鴨田さんです」
「そうそう、鴨田さんがやってくれるから問題ありませんよ」
君は支配人を疑わしげに見つめる。鴨田さんの串の焼き方がぎこちなかったことを思い出したからだ。この百貨店では、未熟な技量の人間を責任ある地位につけているようだけれども大丈夫だろうか? 君は不安に思うだろう。
「ところで、福盛さんはどうして辞めたのですか? 鴨田さんは『願いが叶ったからだ』と言っていましたけど……」
「その通りですよ」
支配人は当然といった顔をしている。それが不思議で納得がいかない。何かこの百貨店特有のルールがあるのだろうか。それを知りたいと思うが、口にすることで支配人の機嫌を損ねないか心配している。
しかし、支配人は君の訊きたい事を当てて見せる。
「願いが叶ったら、どうして辞めるのか……ですね? じゃあ、ひとつ約束して下さい。怖がらないと」
君は、鼓動が速くなるのを意識する。ここにはやはり秘密があるのだ。知ってはいけない何かが。
「福盛さんは、亡くなった奥様と和解するというのが願いでした」
支配人はゆっくりとした口調で言った。
「あの……亡くなったとは?」
君はあの主が二度の結婚をしていたのかと訝しむ。あんな古風でかいがいしく働いている奥さんがいるのに……、前の奥さんが忘れられないなんて、と奇妙に思うだろう。
「礼田君も会っていますよ。お店を手伝っていたでしょう?」
「え、あの奥さん亡くなっていたんですか!」
支配人は君の驚いた顔を見て、手をゆっくりと君の首元に置く。
「驚かないで下さいね。とっくの昔に……亡くなっていたんですよ」
君の首元に置かれた手が冷たく、血が通っていないように感じる。そんな……ま、まさか……、君はその手を払いのけたいと思うが、動けなくなっている。体が金縛りにあったようになり、呼吸も苦しくなっている。君の胸郭は動き、口からは空気を吐く動作が続いているのに、空気が肺に入って来ない。このまま、死んでしまうのか。い、い、嫌だ。君は叫び出しそうになるのを堪えて、視線をゆっくりと首元の手から、支配人の本体へと向ける。
濃い緑の帽子に、淡く灰みがかった緑のスーツ、そして以前会った時と同じ左右に延びて整えられた口髭……。この人のファッションもよく考えれば変だ、というより時代遅れで昔のセピア色の写真から出てきたようだ。どうしてこのことに気づかなかったのだろう。奥さんも今目の前にいる男も……、生きた人間ではないのだ。支配人は口元に気味の悪い笑みを浮かべて囁く。
「怖がらないで下さいね。私は……、もう……、この世には……」
ヒー! 君は声にならない叫び声をあげ、息を思い切り吐いて逃れようとする。すると、不思議な力で手足が痺れ、頭がぼうっと浮かび上がり、息がますます苦しくなるのを感じる。
すると、笑っているように見えた支配人の目は、急に深刻な焦りの色を浮かべるだろう。
「いや……、ごめんね。ちょっと脅かし過ぎた。幽霊じゃないですよ、生きてますよ、私は」
そう言われても呼吸がひっ迫するのは止められず、速いままだ。君は倒れそうになるのを感じ、近くにあった子ども用の椅子に腰かけて下を向く。
「息を止めて!」
天の声のように響く支配人の言葉に従い、息を止めてみる。どれくらい止めただろうか。三、四、五秒くらいか? いや……、それよりも長い気がする。
「さ、ゆっくり吐いて」
言われた通りに、口をすぼめて少しずつ空気を肺から押し出すようにしてみる。すると、どっと空気が体内に戻って来るのを感じる。
「いいですよ。それを繰り返して」
すると徐々に頭の浮く感触や息の苦しさ、手足の痺れが薄れて、足裏に床をしっかりと意識できるようになる。支配人の手に温かい血が通っているのもわかるようになる。
「良くなったようですね」
君は顔を上げて彼を見つめる。心配と喜びの混じった顔を。
「今から信じられないことを離しますが、礼田君に危険が及ぶ類の話ではないので安心して下さい。まず、私を始めとしてお店の人間の多くは生きている人です。いいですね?」
君は不安になりながらも頷いてみせる。
「ほら、息がまだ早いですよ。ゆっくり、ゆっくり。どうやら怖がり過ぎて過呼吸を起こしたみたいですね。焦って速く呼吸をすると手足が痺れますよ。そうそう」
そう言ったきり彼は黙って君を温かい眼差しで見つめている。君の息遣いを見て、彼は頭を少し下げる。
「申し訳なかったですね。ちょっと悪戯心で……。で、本当の話をします。よく聞いて下さい。働いていた福盛さんの奥様は昔に亡くなっています。礼田君が見たのは幽霊の状態です」
その言葉に衝撃を受けたものの、二度目に聞くと先程よりは恐怖の度合いも和らいでいる。だが、代わりに不安が心の底から沸き起こってくる。これを尋ねてもいいのかどうか迷うが、もう足を踏み入れてしまい引き返せないという思いが強くなり、勇気を振り絞って口にする。
「あの……、ぼくは、もしかして……、もう死んでいるのでしょうか?」
支配人は首を振って君を安心させようとする。
「ここは死者だけの百貨店ではないのです。ここは、私の予想ですが、生者も死者も拒まない空間の歪みに建っている百貨店といったところでしょうか。怖いかもしれませんが、お客の多くは亡くなっている方だと思いますよ」
彼は悲しげに言った。
「亡くなった人が皆、お客さんに?」
「いえ、礼田君も最初がお客様として来店されましたよね?」
支配人は、カウンターの後ろから脚立を持ち出してきて、一番高い所に脚を組んで座る。
「礼田君のように、生きてらっしゃる方も来ますよ。亡くなった方に混じって」
「あの……本当に呪い殺されるなんてことは……」
君の言葉に、支配人は声をあげて笑った。
「そのような争いはありません。ここでは、生きていても亡くなっていてもお客様は似たようなものなのです。礼田君にはお客様の区別がつきますか? それは、お金持ちとお金をあまりお持ちでないお客様を見分けることよりも難しい。幽霊の方だって、現金やカードで支払ってくれる時代ですからねえ」
話をしているうちに、さらに君の中で解消しておきたい疑問が湧いてくる。
「僕、受付の方に『あなたにはここに居る資格があるのに』と言われたんですが……ここに勤めるのに資格が必要なんですか? あと、僕はどうしてここから出られないのですか?」
川上支配人は、口髭を指先で整えながら思案していた。
「私も長い間ここで働いていて感じるのですが、ここに来る人は生死にかかわらず、表の社会で居場所を無くしているんじゃないですかねえ……」
「でも、僕と鹿島さん以外の従業員は、毎日家に帰っているんですよね?」
支配人はうーんと唸りながら、首を傾げていた。
「出られませんか? 出入りは自由だと思っていました。と、いうより、閉店時刻になると、いつの間にか百貨店の外に追い出されているような感覚ですが。礼田君は出られませんか?」
君が頷くと、彼はもしかしたらと呟いてから、はっきりと言った。
「礼田君は家が無いのですよね? もしかしたら百貨店の外に帰る場所が無いのが影響しているのかもしれません。私には妻の待つ家がありますし、福盛さんは家に亡くなった奥様の写真が飾ってあると言っていましたから」
つまり、他の従業員と違って君たちは、社会での居場所が無く、個人的に繋がりのある友人も、仲の良い家族もいない。そんな君を、もしかしたら、この百貨店が閉じ込めることでシェルターの役割を果たしてくれているのかもしれない。君はそんな風に考えた事を支配人に告げてみる。彼はすぐに手を叩いて賛同するだろう。
「そうですよ。きっと礼田君をここから出してはいけないと思っての行動なのですよ。ほら、ここに居ることで礼田君は恋人ができたじゃないですか。聞いてますよ。ここに居る限り、生活に困らない。君の願いが叶うまで、ゆっくり過ごしてくれればいいんじゃないですかねえ」
彼の言葉に、全て納得したわけではないが、ここは、君にとって悪意のない場所だということだけは理解して、ほっと息をつく。
店長だと突然指名されたものの、支配人が請け負ったように、君は特段変わった仕事を命ぜられることはなかった。
福袋が概ね完売してしまうと、商品のシャツを畳み直す以外にすることもなく、カウンター内で川上が伝票の整理や商品の発注、シフト表作りなどをしているのをぼんやりと眺めていた。
レジ横の電話が鳴り、支配人が出て二言三言話すと、彼はレジの締め方わかる? わからなかったらそのままにしておいて、そう言って消え去ってしまった。
遥か遠くでいつもの閉店の曲が流れている。しかし、ここに来た頃とはちがって、その曲で君が焦ったり駆け出したくなるような衝動に突き上げられたりすることは、もうない。ここに居ても危険はないのだ。後は、五階フロアに戻って鹿島が準備してくれた料理を食べるだけ。そして、どうしても退屈なら、テレビの安直な笑いをもたらす番組を見て彼女と語らい、ここの生活について、君が今日得てきた情報を教えてあげることになるかもしれない。そう考える。彼女は驚くだろうか、それとも喜ぶだろうか、または既に知っていることを君に隠していたやましさで曖昧な笑顔を浮かべるのだろうか。
いつもと同じように、暗い階段を慎重に昇って行く。階段の扉を開けると、光のシャワーが出迎えてくる。眩しさに慣れようと俯いて目をしばたたいているうちに、見慣れた展示品の着物、バスタブ、テーブルが視界の端に捉えられてくる。
人の気配はしない。君は「鹿島、帰ったよ」と新婚夫婦のように甘えた声を発してみるが、それは周囲の空間に吸収されて戻って来ないことに気づくだろう。寂寥感が不意に襲ってくる。いつも眠っているベッドの傍に立つと、皺ひとつないシーツが敷いてあり、ソファを見ると凹みひとつない。テーブルの上には白い紙。何らかの用事を告げるものだろうと思い、すぐに手に取り、最小の一行だけで読むのがすっかり恐ろしくなった。だが、君の目はそこに描かれたインクの染みに引っ張られていって止まることができない。
ごめんね。
礼田君に好かれるという願いが叶ったから、ここを出ます。
あたしはこういう女なの、許してね。
鹿島
追伸 コトラを大切にしてね
しばらくの間、文字を心で消化することができず、何度も読む。そのうちに鹿島がひょっこり戻って来て、「遅くなってごめんね」とはにかんだあの笑顔を見せてくるのを待ちながら。何度も繰り返して文字を追ううちに、現実の残酷さに打ちひしがれて、君はそっと紙を手放す。
しばらくの間、何も考えられなくなる。彼女との親しさを味わった日々、快活な目、華奢な体つきを思い出して喪失感から逃れようとする。
失恋……したのだ。君は恋人をあっという間に失い、この広大なフロアを一人で眠らなければならないという現実と向き合わねばならない。彼女が地下一階のどこかで調達してくれたおせちの弁当。そのスチロール製の安っぽい箱の中には、海老や栗きんとん、数の子といった意外と豪勢な料理が整然と並んでいる。
彼女の最後の愛。箸を持って一口、口に放り込んだが、その時君は食べ物を受け付けなくなっているのに気づくだろう。
一二時間も経っただろうか。君はとてもよく馴れた白猫のコトラを膝に抱え、櫛でブラッシングをしている。いつのまにかコトラの頭の上に水滴がポタッと落ちる。君は気づかない間に涙をこぼしていたのだ。そのことに気がつくと、涙は次から次へと溢れ出て、止め方がわからなくなってしまう。
その理由はわかっている。君が先程ペットショップのガラスショーケースをスマホのライトで照らした時、コトラの写真と共に『新しい家族が決まりました』と表示がされているのを見たのだ。この猫は早晩、君以外の誰かの元へ引き取られてゆく。
コトラは顔を上げて、鼻を君の頬に近づけ、慰めるようにその涙を舐め取るだろう。
「お前、せっかく飼ったのにもうお別れなんだね。鹿島もお前も居なくなって、僕はひとりぼっちに戻るんだ」
涙の落ちた猫の背中を何度も撫でる。濡れた毛はペタッと背中に貼りついて、濡れた場所だけが凹んだようになり、その奇妙な背中を君は撫で続ける。
孤独に慣れていると思っていた。一日中、業務の指示や報告以外で人と口をきくことがなくても、命ある温かさに触れなくとも平気だった。しかし、一度その支えを得てしまうと、今度は意識してこなかった孤独感に加え、喪失感までもが重く君の上にのしかかってくる。
猫とひとしきり愛情を交換すると、鹿島の最後の贈り物に再び箸をつけようとする。しかし、砂や土を食べているように味がしない。調味料が薄いのかと思い醤油をかけてみたが同じだった。それでも、君は丁寧にひとつひとつを口に運び、最後まで咀嚼するだろう。
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