映画「天使の涙」の登場人物とリンクする実存的な揺らぎ
90年代の香港映画、「天使の涙」。ストーリーは、主人公の男性殺し屋とエージェントの女性を中心に展開し、そこに口のきけない違法な商売をする口のきけない青年モウ、失恋で自暴自棄になる女性ヤン、殺し屋を逆ナンする金髪の女性、この五人が互いに接点を持ちながら進行する。
殺し屋は「性格で職業が決まる。俺の仕事はただ指示に従うだけ」という割り切った思いでエージェントの指示通りに場所に向かい、「仕事」を実行する。仕事ぶりは完璧なのだが、自信が揺らぐにつれて、自分自身の意志で仕事をしたくなる。殺し屋を卒業して焼き鳥屋になることを考えるなど迷走するうちに、エージェントからの最後の依頼を受けて、そこで仕事に失敗し殺害される。
映画での登場人物は、全員、その立ち位置を見失っている。エージェントは殺し屋に恋心を抱いているが、昇華できずに屈折した愛を見せる。モウはおかしくなった父親との関係性なのか陽気過ぎるほど陽気に振舞うが、ヤンに恋をすることで現実の自分を見せつけられ、違法な商売ができなくなる。ヤンは、元カレの幻影を追いかけ、自分と元カレの関係性を直視することができず、幻影の恋を追い続ける。金髪の女性は刹那的な生き方しかできないように見える。
そこで問われているのは、生きる意味を自分で見出す難しさだ。私自身の話をすると、フリーランスになって十数年経つが、多くの人間が独立せずに会社員のままでいる理由がよくわかる。会社員でいると、「自分は何のために仕事をしているか」と考えずに済むからだ。それは会社組織が高揚している限りは与えてくれる。勿論、悩みながら、自分なりの答えを出して働く組織内の人間も大勢いる。しかし、ものぐさな私は、組織に属していれば、きっと楽をしていただろう。考えないで楽をしようとすればできる。かつて会社勤めをしていた私なりの結論である。
この殺し屋は自称「ものぐさ」ゆえにフリーで殺し屋をする。この気持ちはよく分かる。フリーランスでの専門職は知識の切り売りをしていれば良いと、割り切った仕事の仕方ができる。相手が望む業務をつつがなく実行していれば、報酬は手にし、生活を回すことができる。
しかしフリーランスは仕事を増やすのも減らすのも自由だ。そこで、我儘が出てくる。クライアントを良くしたい、もっと社会の役に立つような働きぶりをしたい。言われただけの仕事をすることに不満が沈殿してくる。不満がたまると、だんだんとそれは実存的な悩みへと発展してくる。「自分は何のために働いている?」「この先、自分はどう生きるべきか」と言った、誰も答えをくれない問いである。
殺し屋は、自分の意志で自分のために仕事を辞めたくなった。その心の揺れが致命傷となった。迷いながら仕事をすると失敗する。この映画のメッセージの一つだと思う。そのシーンを観て殺された主人公は案外幸せかもと思った。この世から消えることで、実存的な悩みに晒されることはないからだ。
私自身は、迷いながらも生きてゆくしかない。誰も、生きる意味を与えてくれないフリーランスの立場は、いつも冷たい風が吹いている。仕事が不安定だからではない。自分で自分の立ち位置を作っていかないと、孤独に押し流されそうになる。その代わり、人間関係のわずらわしさからは解放され自由を手にすることができる。実存的悩みと自由のトレードオフ。この映画の登場人物たちの多くは自由に振舞っているが、心に空虚を抱えて生きているのがありありと伝わってくる。それは、私の心に吹く空虚感とリンクして、ぬるま湯のような安心感が得られる映画だった。